助が、その所謂《いわゆる》佯狂苦肉《ようきょうくにく》の計を褒《ほ》められて、苦《にが》い顔をしたのに不思議はない。彼は、再度の打撃をうけて僅に残っていた胸間の春風《しゅんぷう》が、見る見る中に吹きつくしてしまった事を意識した。あとに残っているのは、一切の誤解に対する反感と、その誤解を予想しなかった彼自身の愚に対する反感とが、うすら寒く影をひろげているばかりである。彼の復讐の挙も、彼の同志も、最後にまた彼自身も、多分このまま、勝手な賞讃の声と共に、後代まで伝えられる事であろう。――こう云う不快な事実と向いあいながら、彼は火の気のうすくなった火鉢に手をかざすと、伝右衛門の眼をさけて、情なさそうにため息をした。

       ―――――――――――――――――――――――――

 それから何分かの後《のち》である。厠《かわや》へ行くのにかこつけて、座をはずして来た大石内蔵助は、独り縁側の柱によりかかって、寒梅の老木が、古庭の苔《こけ》と石との間に、的※[#「白+轢のつくり」、第3水準1−88−69]《てきれき》たる花をつけたのを眺めていた。日の色はもううすれ切って、植込みの竹のかげからは、早くも黄昏《たそがれ》がひろがろうとするらしい。が、障子の中では、不相変《あいかわらず》面白そうな話声がつづいている。彼はそれを聞いている中に、自《おのずか》らな一味の哀情が、徐《おもむろ》に彼をつつんで来るのを意識した。このかすかな梅の匂につれて、冴《さえ》返る心の底へしみ透って来る寂しさは、この云いようのない寂しさは、一体どこから来るのであろう。――内蔵助は、青空に象嵌《ぞうがん》をしたような、堅く冷《つめた》い花を仰ぎながら、いつまでもじっと彳《たたず》んでいた。
[#地から1字上げ](大正六年八月十五日)



底本:「芥川龍之介全集2」ちくま文庫、筑摩書房
   1986(昭和61)年10月28日第1刷発行
   1996(平成8)年7月15日第11刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:野口英司
校正:もりみつじゅんじ
1997年11月17日公開
2004年3月7日修正
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