置いて、眼鏡をかけたまま、居眠りをしていた堀部弥兵衛が、眼をさますが早いか、慌ててその眼鏡をはずして、丁寧に頭を下げた容子《ようす》である。これにはさすがな間喜兵衛も、よくよく可笑《おか》しかったものと見えて、傍《かたわら》の衝立《ついたて》の方を向きながら、苦しそうな顔をして笑をこらえていた。
「伝右衛門殿も老人はお嫌いだと見えて、とかくこちらへはお出《いで》になりませんな。」
 内蔵助は、いつに似合わない、滑《なめらか》な調子で、こう云った。幾分か乱されはしたものの、まだ彼の胸底には、さっきの満足の情が、暖く流れていたからであろう。
「いや、そう云う訳ではございませんが、何かとあちらの方々《かたがた》に引とめられて、ついそのまま、話しこんでしまうのでございます。」
「今も承《うけたまわ》れば、大分《だいぶ》面白い話が出たようでございますな。」
 忠左衛門も、傍《かたわら》から口を挟《はさ》んだ。
「面白い話――と申しますと……」
「江戸中で仇討《あだうち》の真似事が流行《はや》ると云う、あの話でございます。」
 藤左衛門は、こう云って、伝右衛門と内蔵助《くらのすけ》とを、にこにこしながら、等分に見比べた。
「はあ、いや、あの話でございますか。人情と云うものは、実に妙なものでございます。御一同の忠義に感じると、町人百姓までそう云う真似がして見たくなるのでございましょう。これで、どのくらいじだらくな上下《じょうげ》の風俗が、改まるかわかりません。やれ浄瑠璃《じょうるり》の、やれ歌舞伎のと、見たくもないものばかり流行《はや》っている時でございますから、丁度よろしゅうございます。」
 会話の進行は、また内蔵助にとって、面白くない方向へ進むらしい。そこで、彼は、わざと重々しい調子で、卑下《ひげ》の辞を述べながら、巧《たくみ》にその方向を転換しようとした。
「手前たちの忠義をお褒《ほ》め下さるのは難有《ありがた》いが、手前|一人《ひとり》の量見では、お恥しい方が先に立ちます。」
 こう云って、一座を眺めながら、
「何故かと申しますと、赤穂一藩に人も多い中で、御覧の通りここに居りまするものは、皆|小身者《しょうしんもの》ばかりでございます。もっとも最初は、奥野将監《おくのしょうげん》などと申す番頭《ばんがしら》も、何かと相談にのったものでございますが、中ごろから量見を変え、ついに同盟を脱しましたのは、心外と申すよりほかはございません。そのほか、新藤源四郎《しんどうげんしろう》、河村伝兵衛《かわむらでんびょうえ》、小山源五左衛門《こやまげんござえもん》などは、原惣右衛門より上席でございますし、佐々小左衛門《ささこざえもん》なども、吉田忠左衛門より身分は上でございますが、皆一挙が近づくにつれて、変心致しました。その中には、手前の親族の者もございます。して見ればお恥しい気のするのも無理はございますまい。」
 一座の空気は、内蔵助のこの語《ことば》と共に、今までの陽気さをなくなして、急に真面目《まじめ》な調子を帯びた。この意味で、会話は、彼の意図通り、方向を転換したと云っても差支えない。が、転換した方向が、果して内蔵助にとって、愉快なものだったかどうかは、自《おのずか》らまた別な問題である。
 彼の述懐を聞くと、まず早水藤左衛門は、両手にこしらえていた拳骨《げんこつ》を、二三度膝の上にこすりながら、
「彼奴等《きゃつら》は皆、揃いも揃った人畜生《にんちくしょう》ばかりですな。一人として、武士の風上《かざかみ》にも置けるような奴は居りません。」
「さようさ。それも高田群兵衛《たかたぐんべえ》などになると、畜生より劣っていますて。」
 忠左衛門は、眉をあげて、賛同を求めるように、堀部弥兵衛を見た。慷慨家《こうがいか》の弥兵衛は、もとより黙っていない。
「引き上げの朝、彼奴《きゃつ》に遇《あ》った時には、唾を吐きかけても飽き足らぬと思いました。何しろのめのめと我々の前へ面《つら》をさらした上に、御|本望《ほんもう》を遂げられ、大慶の至りなどと云うのですからな。」
「高田も高田じゃが、小山田庄左衛門《おやまだしょうざえもん》などもしようのないたわけ者じゃ。」
 間瀬久太夫が、誰に云うともなくこう云うと、原惣右衛門や小野寺十内も、やはり口を斉《ひと》しくして、背盟《はいめい》の徒を罵りはじめた。寡黙な間喜兵衛でさえ、口こそきかないが、白髪《しらが》頭をうなずかせて、一同の意見に賛同の意を表した事は、度々《どど》ある。
「何に致せ、御一同のような忠臣と、一つ御《ご》藩に、さような輩《やから》が居《お》ろうとは、考えられも致しませんな。さればこそ、武士はもとより、町人百姓まで、犬侍《いぬざむらい》の禄盗人《ろくぬすびと》のと悪口《あっこう》を申して居《お》るようでございます。岡林杢之助《おかばやしもくのすけ》殿なども、昨年切腹こそ致されたが、やはり親類縁者が申し合せて、詰腹《つめばら》を斬らせたのだなどと云う風評がございました。またよしんばそうでないにしても、かような場合に立ち至って見れば、その汚名も受けずには居《お》られますまい。まして、余人は猶更《なおさら》の事でございます。これは、仇討《あだうち》の真似事を致すほど、義に勇みやすい江戸の事と申し、且《かつ》はかねがね御一同の御憤《おいきどお》りもある事と申し、さような輩を斬ってすてるものが出ないとも、限りませんな。」
 伝右衛門は、他人事《ひとごと》とは思われないような容子《ようす》で、昂然とこう云い放った。この分では、誰よりも彼自身が、その斬り捨ての任に当り兼ねない勢いである。これに煽動《せんどう》された吉田、原、早水、堀部などは、皆一種の興奮を感じたように、愈《いよいよ》手ひどく、乱臣賊子を罵殺《ばさつ》しにかかった。――が、その中にただ一人、大石内蔵助だけは、両手を膝の上にのせたまま、愈《いよいよ》つまらなそうな顔をして、だんだん口数をへらしながら、ぼんやり火鉢の中を眺めている。
 彼は、彼の転換した方面へ会話が進行した結果、変心した故朋輩の代価で、彼等の忠義が益《ますます》褒《ほ》めそやされていると云う、新しい事実を発見した。そうして、それと共に、彼の胸底を吹いていた春風は、再び幾分の温《ぬく》もりを減却した。勿論彼が背盟の徒のために惜んだのは、単に会話の方向を転じたかったためばかりではない、彼としては、実際彼等の変心を遺憾とも不快とも思っていた。が、彼はそれらの不忠の侍をも、憐みこそすれ、憎いとは思っていない。人情の向背《こうはい》も、世故《せこ》の転変も、つぶさに味って来た彼の眼《まなこ》から見れば、彼等の変心の多くは、自然すぎるほど自然であった。もし真率《しんそつ》と云う語《ことば》が許されるとすれば、気の毒なくらい真率であった。従って、彼は彼等に対しても、終始寛容の態度を改めなかった。まして、復讐の事の成った今になって見れば、彼等に与う可きものは、ただ憫笑《びんしょう》が残っているだけである。それを世間は、殺しても猶飽き足らないように、思っているらしい。何故我々を忠義の士とするためには、彼等を人畜生《にんちくしょう》としなければならないのであろう。我々と彼等との差は、存外大きなものではない。――江戸の町人に与えた妙な影響を、前に快からず思った内蔵助《くらのすけ》は、それとは稍《やや》ちがった意味で、今度は背盟の徒が蒙った影響を、伝右衛門によって代表された、天下の公論の中に看取した。彼が苦い顔をしたのも、決して偶然ではない。
 しかし、内蔵助の不快は、まだこの上に、最後の仕上げを受ける運命を持っていた。
 彼の無言でいるのを見た伝右衛門は、大方《おおかた》それを彼らしい謙譲な心もちの結果とでも、推測したのであろう。愈《いよいよ》彼の人柄に敬服した。その敬服さ加減を披瀝《ひれき》するために、この朴直な肥後侍《ひござむらい》は、無理に話頭を一転すると、たちまち内蔵助の忠義に対する、盛な歎賞の辞をならべはじめた。
「過日もさる物識りから承りましたが、唐土《もろこし》の何とやら申す侍は、炭を呑んで唖《おし》になってまでも、主人の仇《あだ》をつけ狙ったそうでございますな。しかし、それは内蔵助殿のように、心にもない放埓《ほうらつ》をつくされるよりは、まだまだ苦しくない方《ほう》ではございますまいか。」
 伝右衛門は、こう云う前置きをして、それから、内蔵助が濫行《らんこう》を尽した一年前の逸聞《いつぶん》を、長々としゃべり出した。高尾《たかお》や愛宕《あたご》の紅葉狩も、佯狂《ようきょう》の彼には、どのくらいつらかった事であろう。島原《しまばら》や祇園《ぎおん》の花見の宴《えん》も、苦肉の計に耽っている彼には、苦しかったのに相違ない。……
「承れば、その頃京都では、大石かるくて張抜石《はりぬきいし》などと申す唄も、流行《はや》りました由を聞き及びました。それほどまでに、天下を欺き了《おお》せるのは、よくよくの事でなければ出来ますまい。先頃|天野弥左衛門《あまのやざえもん》様が、沈勇だと御賞美になったのも、至極道理な事でございます。」
「いや、それほど何も、大した事ではございません。」内蔵助は、不承不承《ふしょうぶしょう》に答えた。
 その人に傲《たかぶ》らない態度が、伝右衛門にとっては、物足りないと同時に、一層の奥床しさを感じさせたと見えて、今まで内蔵助の方を向いていた彼は、永年京都|勤番《きんばん》をつとめていた小野寺十内の方へ向きを換えると、益《ますます》、熱心に推服の意を洩《もら》し始めた。その子供らしい熱心さが、一党の中でも通人の名の高い十内には、可笑《おか》しいと同時に、可愛《かわい》かったのであろう。彼は、素直《すなお》に伝右衛門の意をむかえて、当時内蔵助が仇家《きゅうか》の細作《さいさく》を欺くために、法衣《ころも》をまとって升屋《ますや》の夕霧《ゆうぎり》のもとへ通いつめた話を、事明細に話して聞かせた。
「あの通り真面目な顔をしている内蔵助《くらのすけ》が、当時は里げしきと申す唄を作った事もございました。それがまた、中々評判で、廓《くるわ》中どこでもうたわなかった所は、なかったくらいでございます。そこへ当時の内蔵助の風俗が、墨染の法衣姿《ころもすがた》で、あの祇園の桜がちる中を、浮《うき》さま浮さまとそやされながら、酔って歩くと云うのでございましょう。里げしきの唄が流行《はや》ったり、内蔵助の濫行も名高くなったりしたのは、少しも無理はございません。何しろ夕霧と云い、浮橋《うきはし》と云い、島原や撞木町《しゅもくまち》の名高い太夫《たゆう》たちでも、内蔵助と云えば、下にも置かぬように扱うと云う騒ぎでございましたから。」
 内蔵助は、こう云う十内の話を、殆ど侮蔑されたような心もちで、苦々《にがにが》しく聞いていた。と同時にまた、昔の放埓《ほうらつ》の記憶を、思い出すともなく思い出した。それは、彼にとっては、不思議なほど色彩の鮮《あざやか》な記憶である。彼はその思い出の中に、長蝋燭《ながろうそく》の光を見、伽羅《きゃら》の油の匂を嗅ぎ、加賀節《かがぶし》の三味線の音《ね》を聞いた。いや、今十内が云った里げしきの「さすが涙のばらばら袖に、こぼれて袖に、露のよすがのうきつとめ」と云う文句さえ、春宮《しゅんきゅう》の中からぬけ出したような、夕霧や浮橋のなまめかしい姿と共に、歴々と心中に浮んで来た。如何に彼は、この記憶の中に出没するあらゆる放埓の生活を、思い切って受用した事であろう。そうしてまた、如何に彼は、その放埓の生活の中に、復讐の挙を全然忘却した駘蕩《たいとう》たる瞬間を、味った事であろう。彼は己《おのれ》を欺いて、この事実を否定するには、余りに正直な人間であった。勿論この事実が不道徳なものだなどと云う事も、人間性に明な彼にとって、夢想さえ出来ない所である。従って、彼の放埓のすべてを、彼の忠義を尽す手段として激賞されるのは、不快であると共に、うしろめたい。
 こう考えている内蔵
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