が今感じている満足と変りはない。
「やはり本意を遂《と》げたと云う、気のゆるみがあるのでございましょう。」
「さようさ。それもありましょう。」
 忠左衛門は、手もとの煙管《きせる》をとり上げて、つつましく一服の煙を味った。煙は、早春の午後をわずかにくゆらせながら、明い静かさの中に、うす青く消えてしまう。
「こう云うのどかな日を送る事があろうとは、お互に思いがけなかった事ですからな。」
「さようでございます。手前も二度と、春に逢おうなどとは、夢にも存じませんでした。」
「我々は、よくよく運のよいものと見えますな。」
 二人は、満足そうに、眼で笑い合った。――もしこの時、良雄の後《うしろ》の障子に、影法師が一つ映らなかったなら、そうして、その影法師が、障子の引手《ひきて》へ手をかけると共に消えて、その代りに、早水藤左衛門の逞しい姿が、座敷の中へはいって来なかったなら、良雄はいつまでも、快い春の日の暖さを、その誇らかな満足の情と共に、味わう事が出来たのであろう。が、現実は、血色の良い藤左衛門の両頬に浮んでいる、ゆたかな微笑と共に、遠慮なく二人の間へはいって来た。が、彼等は、勿論それには気がつかない。
「大分《だいぶ》下《しも》の間《ま》は、賑かなようですな。」
 忠左衛門は、こう云いながら、また煙草《たばこ》を一服吸いつけた。
「今日の当番は、伝右衛門《でんえもん》殿ですから、それで余計話がはずむのでしょう。片岡なども、今し方あちらへ参って、そのまま坐りこんでしまいました。」
「道理こそ、遅いと思いましたよ。」
 忠左衛門は、煙にむせて、苦しそうに笑った。すると、頻《しきり》に筆を走らせていた小野寺十内が、何かと思った気色《けしき》で、ちょいと顔をあげたが、すぐまた眼を紙へ落して、せっせとあとを書き始める。これは恐らく、京都の妻女へ送る消息でも、認《したた》めていたものであろう。――内蔵助も、眦《まなじり》の皺《しわ》を深くして、笑いながら、
「何か面白い話でもありましたか。」
「いえ。不相変《あいかわらず》の無駄話ばかりでございます。もっとも先刻、近松《ちかまつ》が甚三郎《じんざぶろう》の話を致した時には、伝右衛門殿なぞも、眼に涙をためて、聞いて居られましたが、そのほかは――いや、そう云えば、面白い話がございました。我々が吉良《きら》殿を討取って以来、江戸中に何かと仇討
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