い空を見上げた。空には丁度彼の真上に星が一つ輝いてゐた。
 それは彼の二十五の年、――先生に会つた三月目だつた。

     十二 軍港

 潜航艇の内部は薄暗かつた。彼は前後左右を蔽《おほ》つた機械の中に腰をかがめ、小さい目金《めがね》を覗《のぞ》いてゐた。その又目金に映つてゐるのは明るい軍港の風景だつた。「あすこに『金剛』も見えるでせう。」
 或海軍将校はかう彼に話しかけたりした。彼は四角いレンズの上に小さい軍艦を眺めながら、なぜかふと阿蘭陀芹《オランダぜり》を思ひ出した。一人前三十銭のビイフ・ステエクの上にもかすかに匂つてゐる阿蘭陀芹を。

     十三 先生の死

 彼は雨上りの風の中に或新らしい停車場のプラツトフオオムを歩いてゐた。空はまだ薄暗かつた。プラツトフオオムの向うには鉄道工夫が三四人、一斉に鶴嘴《つるはし》を上下させながら、何か高い声にうたつてゐた。
 雨上りの風は工夫の唄や彼の感情を吹きちぎつた。彼は巻煙草に火もつけずに歓《よろこ》びに近い苦しみを感じてゐた。「センセイキトク」の電報を外套のポケツトへ押しこんだまま。……
 そこへ向うの松山のかげから午前六時の上り列車が一列、薄い煙を靡《なび》かせながら、うねるやうにこちらへ近づきはじめた。

     十四 結婚

 彼は結婚した翌日に「来《き》※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々《そうそう》無駄費ひをしては困る」と彼の妻に小言を言つた。しかしそれは彼の小言よりも彼の伯母の「言へ」と云ふ小言だつた。彼の妻は彼自身には勿論、彼の伯母にも詑《わ》びを言つてゐた。彼の為に買つて来た黄水仙の鉢を前にしたまま。……

     十五 彼等

 彼等は平和に生活した。大きい芭蕉の葉の広がつたかげに。――彼等の家は東京から汽車でもたつぷり一時間かかる或海岸の町にあつたから。

     十六 枕

 彼は薔薇の葉の匂のする懐疑主義を枕にしながら、アナトオル・フランスの本を読んでゐた。が、いつかその枕の中にも半身半馬神のゐることには気づかなかつた。

     十七 蝶

 藻の匂の満ちた風の中に蝶が一羽ひらめいてゐた。彼はほんの一瞬間、乾いた彼の唇の上へこの蝶の翅《つばさ》の触れるのを感じた。が、彼の唇の上へいつか捺《なす》つて行つた翅の粉だけは数年後にもまだきらめいてゐた。

     十八 月

 彼は或ホテルの階段の途中に偶然彼女に遭遇した。彼女の顔はかう云ふ昼にも月の光りの中にゐるやうだつた。彼は彼女を見送りながら、(彼等は一面識もない間がらだつた。)今まで知らなかつた寂しさを感じた。……

     十九 人工の翼

 彼はアナトオル・フランスから十八世紀の哲学者たちに移つて行つた。が、ルツソオには近づかなかつた。それは或は彼自身の一面、――情熱に駆られ易い一面のルツソオに近い為かも知れなかつた。彼は彼自身の他の一面、――冷《ひやや》かな理智に富んだ一面に近い「カンデイイド」の哲学者に近づいて行つた。
 人生は二十九歳の彼にはもう少しも明るくはなかつた。が、ヴオルテエルはかう云ふ彼に人工の翼を供給した。
 彼はこの人工の翼をひろげ、易《やす》やすと空へ舞ひ上つた。同時に又理智の光を浴びた人生の歓びや悲しみは彼の目の下へ沈んで行つた。彼は見すぼらしい町々の上へ反語や微笑を落しながら、遮《さへぎ》るもののない空中をまつ直《すぐ》に太陽へ登つて行つた。丁度かう云ふ人工の翼を太陽の光りに焼かれた為にとうとう海へ落ちて死んだ昔の希臘《ギリシヤ》人も忘れたやうに。……

     二十 械《かせ》

 彼等夫妻は彼の養父母と一つ家に住むことになつた。それは彼が或新聞社に入社することになつた為だつた。彼は黄いろい紙に書いた一枚の契約書を力にしてゐた。が、その契約書は後になつて見ると、新聞社は何の義務も負はずに彼ばかり義務を負ふものだつた。

     二十一 狂人の娘

 二台の人力車は人気のない曇天の田舎道を走つて行つた。その道の海に向つてゐることは潮風の来るのでも明らかだつた。後の人力車に乗つてゐた彼は少しもこのランデ・ブウに興味のないことを怪みながら、彼自身をここへ導いたものの何であるかを考へてゐた。それは決して恋愛ではなかつた。若《も》し恋愛でないとすれば、――彼はこの答を避ける為に「兎《と》に角《かく》我等は対等だ」と考へない訣《わけ》には行かなかつた。
 前の人力車に乗つてゐるのは或狂人の娘だつた。のみならず彼女の妹は嫉妬の為に自殺してゐた。
「もうどうにも仕かたはない。」
 彼はもうこの狂人の娘に、――動物的本能ばかり強い彼女に或憎悪を感じてゐた。
 二台の人力車はその間に磯臭い墓地の外へ通りかかつた。蠣殻《かきがら》のついた粗朶垣《そだがき》の中
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