機の前へ歩み寄つてレコオドの貼り札を検《しら》べることにした。
Magic Flute――Mozart
彼は咄嗟《とつさ》に了解した。十戒を破つたモツツアルトはやはり苦しんだのに違ひなかつた。しかしよもや彼のやうに、……彼は頭を垂れたまま、静かに彼の卓子《テエブル》へ帰つて行つた。
四十二 神々の笑ひ声
三十五歳の彼は春の日の当つた松林の中を歩いてゐた。二三年前に彼自身の書いた「神々は不幸にも我々のやうに自殺出来ない」と云ふ言葉を思ひ出しながら。……
四十三 夜
夜はもう一度迫り出した。荒れ模様の海は薄明りの中に絶えず水沫《しぶき》を打ち上げてゐた。彼はかう云ふ空の下に彼の妻と二度目の結婚をした。それは彼等には歓《よろこ》びだつた。が、同時に又苦しみだつた。三人の子は彼等と一しよに沖の稲妻を眺めてゐた。彼の妻は一人の子を抱き、涙をこらへてゐるらしかつた。
「あすこに船が一つ見えるね?」
「ええ。」
「檣《ほばしら》の二つに折れた船が。」
四十四 死
彼はひとり寝てゐるのを幸ひ、窓格子に帯をかけて縊死《いし》しようとした。が、帯に頸《くび》を入れて見ると、俄《には》かに死を恐れ出した。それは何も死ぬ刹那《せつな》の苦しみの為に恐れたのではなかつた。彼は二度目には懐中時計を持ち、試みに縊死を計ることにした。するとちよつと苦しかつた後、何も彼《か》もぼんやりなりはじめた。そこを一度通り越しさへすれば、死にはひつてしまふのに違ひなかつた。彼は時計の針を検《しら》べ、彼の苦しみを感じたのは一分二十何秒かだつたのを発見した。窓格子の外はまつ暗だつた。しかしその暗《やみ》の中に荒あらしい鶏の声もしてゐた。
四十五 Divan
Divan はもう一度彼の心に新しい力を与へようとした。それは彼の知らずにゐた「東洋的なゲエテ」だつた。彼はあらゆる善悪の彼岸に悠々と立つてゐるゲエテを見、絶望に近い羨ましさを感じた。詩人ゲエテは彼の目には詩人クリストよりも偉大だつた。この詩人の心にはアクロポリスやゴルゴタの外にアラビアの薔薇さへ花をひらいてゐた。若しこの詩人の足あとを辿《たど》る多少の力を持つてゐたらば、――彼はデイヴアンを読み了《をは》り、恐しい感動の静まつた後、しみじみ生活的|宦官《くわんぐわん》に生まれた彼自身を軽蔑
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