ん
わが名はいかで惜しむべき
惜しむは君が名のみとよ。
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三十八 復讐
それは木の芽の中にある或ホテルの露台だつた。彼はそこに画を描きながら、一人の少年を遊ばせてゐた。七年前に絶縁した狂人の娘の一人息子と。
狂人の娘は巻煙草に火をつけ、彼等の遊ぶのを眺めてゐた。彼は重苦しい心もちの中に汽車や飛行機を描きつづけた。少年は幸ひにも彼の子ではなかつた。が、彼を「をぢさん」と呼ぶのは彼には何よりも苦しかつた。
少年のどこかへ行つた後、狂人の娘は巻煙草を吸ひながら、媚《こ》びるやうに彼に話しかけた。
「あの子はあなたに似てゐやしない?」
「似てゐません。第一……」
「だつて胎教と云ふこともあるでせう。」
彼は黙つて目を反《そ》らした。が、彼の心の底にはかう云ふ彼女を絞め殺したい、残虐な欲望さへない訣《わけ》ではなかつた。……
三十九 鏡
彼は或カツフエの隅に彼の友だちと話してゐた。彼の友だちは焼林檎《やきりんご》を食ひ、この頃の寒さの話などをした。彼はかう云ふ話の中に急に矛盾を感じ出した。
「君はまだ独身だつたね。」
「いや、もう来月結婚する。」
彼は思はず黙つてしまつた。カツフエの壁に嵌《は》めこんだ鏡は無数の彼自身を映してゐた。冷えびえと、何か脅《おびやか》すやうに。……
四十 問答
なぜお前は現代の社会制度を攻撃するか?
資本主義の生んだ悪を見てゐるから。
悪を? おれはお前は善悪の差を認めてゐないと思つてゐた。ではお前の生活は?
――彼はかう天使と問答した。尤《もつと》も誰にも恥づる所のないシルクハツトをかぶつた天使と。……
四十一 病
彼は不眠症に襲はれ出した。のみならず体力も衰へはじめた。何人かの医者は彼の病にそれぞれ二三の診断を下した。――胃酸過多、胃アトニイ、乾性|肋膜炎《ろくまくえん》、神経衰弱、慢性結膜炎、脳疲労、……
しかし彼は彼自身彼の病源を承知してゐた。それは彼自身を恥ぢると共に彼等を恐れる心もちだつた。彼等を、――彼の軽蔑してゐた社会を!
或雪曇りに曇つた午後、彼は或カツフエの隅に火のついた葉巻を啣《くは》へたまま、向うの蓄音機から流れて来る音楽に耳を傾けてゐた。それは彼の心もちに妙にしみ渡る音楽だつた。彼はその音楽の了《をは》るのを待ち、蓄音
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