ら、しみじみかう思はずにはゐられなかつた。――「何の為にこいつも生まれて来たのだらう? この娑婆苦《しやばく》の充ち満ちた世界へ。――何の為に又こいつも己《おれ》のやうなものを父にする運命を荷《にな》つたのだらう?」
 しかもそれは彼の妻が最初に出産した男の子だつた。

     二十五 ストリントベリイ

 彼は部屋の戸口に立ち、柘榴《ざくろ》の花のさいた月明りの中に薄汚い支那人が何人か、麻雀戯《マアチアン》をしてゐるのを眺めてゐた。それから部屋の中へひき返すと、背の低いランプの下に「痴人の告白」を読みはじめた。が、二|頁《ペエジ》も読まないうちにいつか苦笑を洩らしてゐた。――ストリントベリイも亦情人だつた伯爵夫人へ送る手紙の中に彼と大差のない※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]《うそ》を書いてゐる。……

     二十六 古代

 彩色の剥《は》げた仏たちや天人や馬や蓮の華《はな》は殆ど彼を圧倒した。彼はそれ等を見上げたまま、あらゆることを忘れてゐた。狂人の娘の手を脱した彼自身の幸運さへ。……

     二十七 スパルタ式訓練

 彼は彼の友だちと或裏町を歩いてゐた。そこへ幌《ほろ》をかけた人力車が一台、まつ直《すぐ》に向うから近づいて来た。しかもその上に乗つてゐるのは意外にも昨夜の彼女だつた。彼女の顔はかう云ふ昼にも月の光の中にゐるやうだつた。彼等は彼の友だちの手前、勿論挨拶さへ交さなかつた。
「美人ですね。」
 彼の友だちはこんなことを言つた。彼は往来の突き当りにある春の山を眺めたまま、少しもためらはずに返事をした。
「ええ、中々美人ですね。」

     二十八 殺人

 田舎道は日の光りの中に牛の糞の臭気を漂はせてゐた。彼は汗を拭ひながら、爪先き上りの道を登つて行つた。道の両側に熟した麦は香ばしい匂を放つてゐた。
「殺せ、殺せ。……」
 彼はいつか口の中にかう云ふ言葉を繰り返してゐた。誰を?――それは彼には明らかだつた。彼は如何《いか》にも卑屈らしい五分刈の男を思ひ出してゐた。
 すると黄ばんだ麦の向うに羅馬《ロオマ》カトリツク教の伽藍《がらん》が一宇《いちう》、いつの間にか円屋根《まるやね》を現し出した。……

     二十九 形

 それは鉄の銚子だつた。彼はこの糸目のついた銚子にいつか「形」の美を教へられてゐた。

     三
前へ 次へ
全15ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング