。黒と白の外に赤や青の色もあるやうにプロレタリア精神にも反対せず味方でもないといふ中間的な立ち場もある。而してこの立ち場はブルヂヨア精神に対しても同様である。又文学の中の俳句などはたとへ作者がプロレタリアの精神に味方するといつても、その句の中にプロレタリアの精神を高調することはできない。又音楽でも軍歌のやうなものでプロレタリアの行進曲でも作れば一寸プロレタリアの音楽のやうに受けとれるがそれは軍歌であつて音楽の範囲外にある。かういふ風ノ芸術方面に於てその形式、本質のため必然的にプロレタリアの精神に味方しそれを表現できないものがある。この点自由であるといはれてゐる小説、戯曲でも恋愛を中心としたもので同時にプロレタリアの精神を高調させやうといつても無理であるといふやうにその芸術に何でもプロレタリアの精神が表現されてゐないからといつてそれをブルヂヨア芸術と呼ぶのは的に外れた考へである。故に明かにプロレタリア精神に反抗する意表に出でたものゝみがプロレタリア文学に対立すべきものである。
 さてプロレタリアの精神に味方したものに大体二通りあると思ふ。第一は宣伝を目的としたものと、第二に文芸を造る傍《
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