は中々考察するに至難でプロレタリア文学の作家といはれてゐる彼のバアナードシヨオの如きは中々豪奢な生活をしてゐて日本のブルヂヨア作家よりもブルヂヨア的な生活をしてゐる。シヨオの外に、さういふ生活をしてゐるプロレタリア文学者は大陸に多くゐる筈である。故に作品の中にプロレタリアの生活を書いてゐるかゐないかによつてブルヂヨア文学とプロレタリア文学が区別さるべきであらうか。これも疑問である。シヨオのものにはプロレタリアの生活が表向きに書かれてゐない。出てくる人物は大抵ブルヂヨア若しくは中産階級である。しかし彼の作品を目してプロレタリア文学といふかといへば、人物や生活はプロレタリアのそれでなくても背後にブルヂヨア生活等の崩壊が暗示されてゐるからである。従つてプロレタリア文学とブルヂヨア文学との区別は作者や題材によつてできるものではない。即ち作者の態度で決定されるものであらう。作者がプロレタリアの精神に反対か賛成かで分たれるものである。而《しか》してプロレタリアの精神にそれは表向きでなくても味方である作者の描いたものは勢ひプロレタリア文学である。しかしさう一概に黒と白といふやうには行かないものである
前へ 次へ
全6ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング