ス時立つの。」
「明日《あした》、明日。」とわしは夢中になつて叫んだ。
「ぢや明日にするわ。其間に御化粧をかへる事が出来てね。これでは少し薄着だし、旅をするにはをかしいわ。それから、私を死んだと思つて此上もなく悲しがつてゐるお友達に知らせを出さなければならないわ。お金に着物に馬車に――皆支度が出来てゐてよ。私、今夜と同じ時刻にお尋ねするわ。さやうなら。」彼女は軽く唇を、わしの額にふれた。ランプは消えて、帳が元のやうに閉されると、凡てが又暗くなつた。と、鉛のやうな、夢も見ない眠りがわしの上に落ちて、次の朝迄、わしを前後を忘れさせてしまつたのである。
 わしは何時ものやうに朝遅く眼をさました。そして其不思議な出来事の回想が終日、わしを煩した。わしは遂にそれを、わしの熱した空想が造つた靄のやうなものだと思ひ直した。が、其感覚が余りに溌剌としてゐるので、其事実でない事を信ずるのは、甚しく困難であつた。そしてわしは来るべき事実に対する多少の予感を抱きながら、凡ての妄想を払つて、清浄な眠を守り給はむ事を神に祈つた後に、遂に床に就いたのであつた。わしは直に深い眠りに落ちた。そしてわしの夢も続けられた。帳《とばり》が再び開いて、わしはクラリモンドの姿を見た。青ざめた経帷子《きやうかたびら》を青ざめた身に纏つて、頬に「死」の紫を印した前夜とは変つて、喜ばしげに活々して、緑がかつた董色の派出な旅行服の、金のレースで縁をとつたのを着て、両脇を綻ばせた所からは、繻子の袴《ジュボン》がのぞいてゐる。金髪の房々した捲毛を、いろいろな形に面白く撚《よ》つてある白い鳥の羽毛をつけた、黒い大きな羅紗の帽子の下から、こぼしてゐる彼女は、手に金色の呼笛のついた小さな鞭を持つて、軽くわしを叩きながら、かう叫んだ。「さあ、よく寝てゐる方や、これが貴方の御支度なの。私、貴方がもう起きて着物を着ていらつしやるかと思つたわ。早くお起きなさいよ。愚図々々しちやゐられないわ。」
 わしは直に寝床からとび出した。
「さあ、着物をきて頂戴。それから出かけませう。」彼女は一しよに持つて来た小さな荷包を指さしながら、「馬が待遠しがつて、戸口で轡《くつわ》を噛んでゐるわ。今時分はもう此処から三十哩も先きへ行つてゐる筈だつたのよ。」
 わしは急いで着物を着た。彼女はわしに着物を一つ/\渡してくれた。そしてわしがどうかして間違へると着物の着方を教へながら、時にわしの不器用なのに呆れては噴き出してしまふのである。それがすむと今度は急いでわしの髪をなでつけてくれる。それもすむと、ヴェネチアの水晶に銀の細工の縁をとつた懐中鏡を、わしの前へ出して、面白さうにかう尋ねる。「どんなに見えて? 私を|お附き《ヴァレエ・ド・シャムブル》にかゝへて下すつて?」
 わしはもう、何時《いつ》ものわしではない。そして自分でさへこれが自分とは思はれない。云はゞ今のわしが、昔のわしに似てゐないのは、出来上つた石像が、石の塊に似てゐないのと同じ事なのである。わしの昔の顔は、鏡に映つた今の顔を下手な画工の描き崩した肖像のやうに思はれた。わしは美しい。わしの虚栄心は此変化に心からそゝられずにはゐられなかつた。美しく刺繍をした袍はわしを全くの別人にしてしまつたのである。わしは或型通りに断《た》つてある五六尺の布がわしの上に加へた変化の力を、驚嘆して見戍《みまも》つた。わしの衣裳の精霊は、わしの皮膚の中に滲み入つて、十分たつかたたぬ中にわしはどうやら一廉《ひとかど》の豪華の児になつてしまつた。
 此新衣裳に慣れようと思つて、わしは室の中を五六度歩いて見た。クラリモンドは花のやうな快楽を味ひでもするやうに、わしを見戍りながら、さも自分の手際《てぎは》に満足するらしく思はれた。「さあ、もう遊ぶのは沢山よ、ロミュアル、これから出かけるのよ。私達は遠くへ行かなければならないのだわ。さうして遅れちやあいけないのだわ。」彼女はわしの手を執つて、外へ出た。戸と云ふ戸は、彼女が手をふれると忽ちに開くのである。わし達は犬の眼もさまさずに其の側を通りぬけた。
 門口でわしは、前にわしの護衛兵だつた、あの黒人の扈従のマルゲリトンを見た。彼は三頭の馬の轡を控へてゐる――三頭共、わしをあの城へ伴れて行つた馬のやうに黒い。一頭はわしの為、一頭は彼の為、一頭はクラリモンドの為である。是等の馬は、西風の神の胎をうけた牝馬が生んだと云ふ西班牙馬《スペインうま》に相違ない。何故と云へば彼等は風のやうに疾《はや》いからである。門を出る時に丁度東に上つて路上のわし達を照した明月は戦車から外れた車輪のやうに、空中を転げまはつて、右の方、梢から梢へ飛び移りながら、息を切らしてわし達に伴《つ》いて来る。間も無く一行はとある平野に来た。其処には四頭の大きな馬に曳かせた馬車が一
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