フである。
彼女はランプを卓の上へのせて、わしの寝床の後に坐つた。それからわしの上に身をかゞめて、銀のやうに冴えてゐる、しかも天鵞絨のやうにやさしく柔かい声で、かう云つた。其声は彼女を除いては誰の唇からも聞く事の出来ぬやうな声である。
「貴方を随分長い間待たせて置いてね。ロミュアル、私が貴方の事を忘れてしまつたのだと思つたでせう。でも私は遠い処から来たのよ、それはずうつと遠い処なの。其処へ行つた者は誰でも帰つて来た事の無い国なの。さうかと云つてお日様でもお月様でもないのよ。唯、空間と影ばかりある処なの、大きな路も小さな路もない処でね。踏むにも地面のない、飛ぶにも空気のない処なの。それでよく此処へ帰つて来られたでせう。何故と云へば恋が『死』より強いからだわ。恋がしまひには『死』を負かさなければならないからだわ。まあ、此処へ来る途中で、何と云ふ悲しい顔や、恐しい物を見たのでせう。唯意志の力だけで又此大地の上へ帰つて来て、体を見附けて其中へはひる迄に、私の霊魂は何と云ふ苦しい目に遭つたでせう。私を掩つて置いた重い石の板を擡げる迄に、何と云ふ苦労をしなければならなかつたでせう。ごらんなさい、私の手の掌《ひら》は傷だらけぢやありませんか。手を接吻して頂戴。さうすれば屹度|癒《なほ》るわ。」彼女は冷い手の掌《ひら》を代り/″\わしの口に当てた。わしは何度となくそれを接吻した。其間も彼女は、溢るゝ許りの愛情の微笑《ほゝゑみ》をもらして、わしをぢつと見戍《みまも》つてゐるのである。
わしは恥しながら白状する。此時わしは僧院長《アベ》セラピオンの忠告もわしの服してゐる神聖な職務も悉く忘れてしまつた。わしは何の抵抗もせずに、一撃されて堕落に陥つてしまつたのである。クラリモンドの皮膚の新たな冷さはわしの皮膚に滲み入つて、わしが淫慾のをのゝきが、全身を通ふのを感ぜずにはゐられなかつた。わしが後《あと》に見た凡ての事があるのにも拘らず、わしは今も猶彼女が悪魔だとは殆ど信じる事が出来ない。少くも彼女は何等さうした姿を示さなかつた。悪女がこの様に巧に其爪と角とを隠した事は、嘗て無かつた事に相違ない。彼女は床をあげて寝台の縁《ふち》に坐りながら、しどけない媚に満ちた姿をして、時々小さな手をわしの髪の中に入れては、どうしたらわしの顔に似合ふかを見るやうに、わしの髪を撚《よ》つたり捲《ま》いたりしてゐるのである。わしが、罪障の深い悦楽に酔つて、彼女の手にわしの体を任せると、彼女は又、其やさしい戯れと共に、楽しげに種々な物語をしてくれる。しかも最も驚くべき事は、わしが此様な不思議な出来事に際会しながら何等の驚異をも感じなかつたと云ふ事である。丁度夢の中では人がどの様な空想的な事件でも、単なる事実として受入れるやうに、わしにも、是等の事情は全く自然であるが如くに思はれたのである。
「貴方に会はないずつと前から私は貴方を愛してゐてよ。可愛いゝロミュアル、さうして方々探してあるいてゐたのだわ。貴方は私の愛だつたのよ。あの時あの教会で始めてお目にかゝつたでせう。私、直に『之があの人だ』つて云つたわ、それから、私の持つてゐた愛、私の今持つてゐる、私の是から先に持つと思ふ、すべての愛を籠めた眸《め》で見て上げたの――其|眼《め》で見ればどんな大僧正でも王様でも家来たちが皆見てゐる前で、私の足下に跪いてしまふのよ。けれど貴方は平気でいらしつたわね、私より神様の方がいゝつて。
「私、ほんたうに神様が憎くらしいわ、貴方はあの時も神様が好きだつたし、今でも私より好きなのね。
「あゝ、あゝ、私は不仕合せね、私は貴方の心をすつかり私の有《もの》にする事が出来ないのね。貴方が接吻で生かして下すつた私――貴方の為に利の門を崩して、貴方を仕合せにしてあげたいばつかりに、命を貴方に捧げてゐる私。」
彼女の話は、悉く最も熱情に満ちた撫愛に伴はれた。其撫愛はわしの感覚と理性とを悩ませて、わしは遂に彼女を慰める為に、恐しい涜神の言を放つて、神を愛する如く彼女を愛すると叫ぶのさへ憚らないやうになつた。
すると、彼女の眼は、再び緑玉髄《エメラルド》の如く輝いた。「ほんたう?――ほんたうに?――神様と同じ位。」彼女は其美しい胸にわしを抱きながら叫んだ。「それなら、貴方、私と一しよにいらつしやるわね、どこへでも私の好きな処へついていらつしやるわね、貴方はもう、あの醜い黒法衣を投げすてゝおしまひなさるのよ。貴方は騎士の中で、一番偉い、一番羨まれる騎士におなりになるのよ、貴方は私の恋人だわ。法王の云ふ事さへ聞かなかつたクラリモンドの晴れの恋人になるのだわ。少しは得意に思ふやうな事ぢやあなくつて。あゝ、美しい、何とも云へぬ程仕合せな生涯を、うるはしい、黄金色《こがねいろ》の生活を、二人で楽むのね。さうして、
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