ョかざる海になつた。そして其中には一つの山のやうな波動が明かに見えてゐるのである。セラピオンは、騾馬を急がせた。わしの馬も同じ歩みを運んで、其後に従つた。そして其内に路が鋭く曲る所へ来たので、S――の市は終に、永久にわしの眼から隠されてしまつた。しかもわしは決して其処へ帰る事の出来ない運命を負つてゐるのである。退屈な三日の旅行の末に、陰鬱な田園の間を行き尽して、わしはわしの管轄すべき寺院の塔上にある風見の鶏が、森の上から覗いてゐるのを見た。それから茅葺の小家と小さな庭園とに挟まれた、曲りくねつた路を行くと、やがて、多少の荘厳を保つた寺院の正面へ出た。五六の塑像で飾られた玄関、荒削りに砂岩を刻んだ円柱、柱と同じ砂岩の控壁《ひかへかべ》のついた瓦葺の屋根――唯これだけである。左手には雑草が背高く生えた墓地があつて、其中央には大きな鉄の十字架が聳えてゐる。右手には寺院の影になつて牧師の住む家がある。家は恐しく簡単で、しかも冷酷な清潔が保たれてゐる。わし達は垣の内へ入つた。五六匹の雛《ひよ》つ仔《こ》が地に撒いてある麦を啄んでゐる。見た所では、僧侶の黒い法衣にも慣れたやうに、少しもわし達を怖がらない。そして殆どわし達の歩く道を明けようとさへしさうもない。と嗄がれた、喘息やみのやうな犬の声が、耳に入つた。老いぼれた犬が、此方へ駈けて来るのである。それは先住の牧師の犬であつた。懶《ものう》い、爛れた眼をして、灰色の毛を垂らしてゐる。そして犬の達し得る、極度の老年に達したと云ふあらゆる徴《しるし》が現れてゐる。わしは犬をやさしく叩いてやつた。犬は直に云ふ可らざる満足の容子を示してわし達と一しよに歩き始めた。以前の牧師の家庭を処理してゐた老婆も亦迎へに出て、わし達を小さな後の客間へ案内してから、わしが猶引続いて彼女を傭つてくれるかどうかと尋ねた。わしは、老婆も犬も雛つ仔も、先住が死際に譲つた其老婆の一切の家具も、残らず面倒を見てやると答へた。之を聞いて、老婆は我を忘れて喜んだ。そして僧院長《アベ》セラピオンは、彼女が其僅な所有物に対して要求した金を、即座に払つてやつた。
 わしの就任がすむと間もなく、僧院長《アベ》セラピオンは僧侶学校に帰つた。そこでわしは助力をして貰ふのにも、相談相手になつて貰ふのにも、自分より外に誰もゐなくなつた。そしてクラリモンドの思ひ出は、再びわしの心に浮び始めたのである。わしは、極力それを打消さうと努めたが、わしの黙想には常に彼女の影が伴つて来た。或日暮にわしが黄楊《つげ》の木にくぎられた路に沿うて、わしの家の小さな庭を散歩してゐると、気のせゐか楡の木の陰にわしと同じやうに歩いてゐる女の姿が見え、しかも其楡の葉の間からは、海のやうな緑色の眼の輝いてゐるのが見えた。併しそれも幻に過ぎなかつたらしく、庭の向う側へまはつて見ると唯、砂地の路の上に足跡が一つ残つてゐるばかりであつた――が其足跡は、子供の足跡かと思はれる程小さかつた。其癖庭は高い塀に囲まれてゐるのである。わしは庭の隅と云ふ隅を探して見たが、誰一人見附からない。わしにはこれが不思議に思はれてならなかつたが、其後起つた奇怪な事に比べると、之などは全く何でも無かつたのである。
 満一年間、わしはわしの職務上の義務を、最も厳格な精密さを以て果しながら、祈祷をしたり、断食をしたり、説教をしたり、病人に霊魂の扶《たす》けを与へたり、又屡々わし自身が其日の生活にも差支へる位、施しをしたりして暮してゐた。しかしわしは心の中にはげしい焦立《いらだゝ》しさを感じてゐた。そして天恵の泉も、わしには湧かなくなつてしまつたやうに思はれた。わしは神聖な使命を充す事から生れる幸福を味ふ事が出来なかつた。わしの思想は遠く漂つて、唯クラリモンドの語のみがわれ知らず繰返へす畳句のやうに、常にわしの唇に上るのである。おゝ、兄弟よ、よく之を考へて見てくれるがいゝ。唯一度、眼をあげて一人の女を見た為に、一見些細な過失の為に、わしは数年間、最もみじめな苦痛の犠牲になつてゐたのだ。そしてわしの生活の幸福は永久に失はれてしまつたのだ。
 わしは、絶えずわしの心に繰りかへされた勝利と敗北を、しかも常に一層恐しい堕落にわしを陥れた勝利と敗北を此上話すのは止めようと思ふ。そして直にわしの物語の事実に話を進めようと思ふ。或夜、わしの戸口の呼鈴が、長く荒々しく鳴らされた。家事まかなひの老婆が起きて、戸を開けると、見知らぬ人が立つてゐる。バルバラ(老婆の名)の角燈の光の中に、青銅のやうな顔をして、立派な外国の装ひをした男の姿が、帯に短刀をさげて、佇んでゐるのである。老婆は、初め恐しい気がした。が、其見知らぬ人は、彼女が安心するやうに用事を告げて、わしの奉じてゐる神聖な職務に関して、至急わしに会ひたいと云ふことを述べた。
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