ノ驚いた蛇か孔雀のやうな、をのゝくやうな嬌態《しな》を作つて、首をもたげる。すると銀の格子細工のやうに頸を捲いてゐる高いレースの襞襟《ひだえり》がをのゝくやうに動くのである。
 彼女は橙色がかつた真紅の天鵞絨《ビロード》の袍を着てゐた。其|黄鼬《てん》の毛皮のついた、広い袖口からは、限りなく優しい、上品な手が、覗いてゐる。手は|曙の女神《オーロラ》の指のやうに、光を透すかと思はれる程、清らかなのである。
 凡て是等の事柄を一つ/\わしは昨日の如く思ひ返す事が出来る。何故と云へば其時、わしはどぎまぎしながらも、何一つ見落すやうな事をしなかつたからである。ほんの微かな陰影でも、顋の先の一寸した黒い点でも、唇の隅の有るか無いかわからない程の生毛《うぶげ》でも、額の上にある天鵞絨のやうな毛でも、頬の上に落ちる睫毛《まつげ》のゆらめく影でも、何でもわしは驚く程明瞭な知覚を以て、注意する事が出来た。
 そしてわしは凝視を続けながら、わしの心の中に、今迄鎖されてゐた門をわしが開いてゐるのを感じた。長い間塞がれてゐた孔が開けて、内部の見知らない景色を垣間見《かいまみ》る事が出来たのである。人生は忽ち全く新奇な光景を、わしの前に示してくれた。わしは、今新しい世界と新しい事物の秩序との中に生れて来るのであつた。
 すると恐しい苦痛がわしの心を、赤熱した釘抜のやうに苛《さいな》みはじめた。一|分《ぷん》一分が、わしには一秒であると共に又一世紀であるやうに思はれた。此間に式が進んで、わしは間も無く、わしの新たに生れた欲望が烈しく、闖入しようとしてゐた世界から、遠くへ引離されてしまつたのである。わしは「否」と云ひたい所を「然り」と答へた。これはわしの心の中にある凡ての物がわしの霊魂に加へた舌の暴行に対して極力反抗したが其甲斐がなかつたのである。恐らく、多くの少女が断然父母の定めた夫を拒絶する心算《つもり》で、祭壇へ歩んで行くのにも関らず、一人として其目的を果す者の無いのも、かうした訳からに相違ない。そして多くの燐れな新参の僧侶が誓言を述べに呼ばれる時には、面※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]《ヴェール》をずた/\に裂く決心をしてゐながら、阿容々々とそれを取つてしまふのも亦確にかうした訳からである。かくして人は、其処にゐる凡ての人々に対して大なる誹謗《ひばう》の声を挙げる事を敢てしないと
前へ 次へ
全34ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング