、に、又多くの人々の期待を欺く事も敢てしない。凡ての夫等の人々の眼、凡ての夫等の人々の意志は、恰も鉛の如く君の上に蔽ひかゝるやうに思はれるのである。それのみならず、規則も正しく定まつてゐれば、万事が予め、完全に整つて、しかも多少必然的に避ける事の出来ないやうに出来上つてゐるので、個人の意志は事情の重みに屈従して遂には全く破壊されてしまふのである。
 式の進むのにつれて、其知らぬ美人の顔も表情が違つて来た。彼女の顔色は、最初は撫愛するやうな優しさを示してゐたが、今は恰もそれを理解させる事が出来ないのを、憎み且つ恥づるやうな容子に変つたのである。
 山をも抜くに足りる意志の力を奮つて、わしは、僧侶などになり度く無いと叫ばうとした。が、どうしてもそれが出来なかつた。わしには舌が上顎に附着してしまつたやうな気がしたのである。わしは否定の綴音を一つでも洩して、わしの意志を表白する事すら出来なかつた、わしは眼が醒めてゐながら、生命《いのち》にも関はる一語を叫ばうとして、魘《うな》されてゐる人間のやうな心持がした。
 彼女もわしの殉教の苦しみを知つてゐるかの如くに見えた。そして恰も、わしを励ますやうに、最も神聖な約束に満ちた眼色《めつき》をして見せるのである。彼女の眼が詩なら彼女の一瞥は正に唄であつた。
 彼女はわしにかう云つてくれる。「貴方《あなた》が私のものになる思召しなら、私は貴方を天国にゐる神様より仕合せにしてあげます。天使たちでさへ貴方を嫉むでせう。貴方は貴方を包まうとする経帷子《きやうかたびら》を裂いておしまひなさい。私は『美』です、『若さ』です、『生命』です。私の所へいらつしやい。エホバはその代りに何を貴方に呉れるのでせう? 私たちの命は夢のやうに、永久の接吻の中に流れて行きます。其聖杯の葡萄酒を投げすてゝおしまひなさい。さうすれば貴方は自由です。私は貴方を『知られざる島』へつれて行つてあげます。貴方は、銀の天幕の下で厚い金の床の上で、私の胸にお眠りなさい。私は貴方を愛してゐるのですから。私は貴方の神の手から貴方を離してしまひたいのですから。貴方の神の前では、大ぜいの尊い心性《こゝろばへ》の人たちが、愛の血を流します。けれども其血は神のゐる玉座の階《きざはし》にさへとゞきません。」
 是等の語は、わしの耳に無限の情味にあふれた諧律を作つて漂つて来るやうに思はれた。そ
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