ノに苛《さいな》まれたが、わしの苦悶に動かされたのであらう、彼女は、丁度死なねばならぬ事を知つた者の末期《まつご》の微笑のやうに、悲しく又やさしく、わしの顔を見てほゝ笑んだ。
 或朝、わしは彼女の寝床の傍に坐つて、直《すぐ》側《そば》に置いてある小さな食卓で朝飯を認めてゐた。それはわしが一分でも彼女の側《そば》を離れたくないと思つたからである。で、或る果物を切らうとした所が、わしは誤つて稍々深くわしの指を傷けた。すると血がすぐに小さな鮮紅の玉になつて流れ出したが、其滴が二滴三滴、クラリモンドにかゝつたと思ふと彼女の眼は忽ちに輝いて、其顔にも亦、わしが嘗て見た事の無いやうな、荒々しい、恐しい喜びの表情が現れた。彼女は忽ち獣の如く軽快に、寝床から躍り出て――丁度猿か猫のやうに軽快に――わしの傷口に飛びつくと、云ひ難い愉快を感じるやうに、わしの血をすゝり始めた。しかも彼女は静かに注意しつゝ、恰も鑑定上手《めきゝじやうず》が、セレスやシラキュウズの酒を味ふやうに、其小さな口に何杯となく啜つて飽かないのである。と、次第に彼女の瞼は垂れ、緑色の眼の瞳は円いと云ふよりも、寧ろ楕円になつた。そしてわしの手に接吻しようとしては、口を離すかと思ふと、又更に幾滴かの紅い滴を吸ひ出さうとして、わしの傷口に其唇をあてるのであつた。血がもう出ないのを見ると、彼女は瑞々した、光のある眼を輝かしながら、五月の朝よりも薔薇色に若やいで、身を起した。顔はつや/\と肉附いて、手も温かにしめつてゐる――常よりも一層美しく、健康も今は全く恢復してゐるのである。
「私もう死なないわ、死なないわ。」悦びに半ば狂したやうにわしの首に縋りつきながら、彼女はかう叫んだ。「私はまだ長い間貴方を愛してあげる事が出来てよ。私の命は貴方の有《もの》だわ。私の中にある物は皆、貴方から来たのだわ。貴方の豊な貴い血の滴が、世界中のどの不死の薬よりも得難い、力のつく薬なの。その血の滴のおかげで私は命を取返したのだわ。」
 此光景は長い間、わしの記憶に上つて来た。そしてクラリモンドに対する不思議な疑惑をわしに起させた。丁度其の夜、睡がわしを牧師館に移した時に、わしは僧院長《アベ》セラピオンが平素よりは一層真面目な、一層気づかはしさうな顔をしてゐるのを見た。彼はぢつとわしを見つめてゐたが、悲しげに叫んで云ふには「お前は霊魂を失ふ丈では飽
前へ 次へ
全34ページ中29ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング