艨b一叢《ひとむら》の木蔭に待つてゐる。で、それへ乗り移ると今度は馭者が気違ひのやうに馬を走らせる。わしは片手をクラリモンドの肩にまはして、彼女の片手をわしの手に執つてゐた、彼女の頭はわしの肩に靠《もた》れて、わしは半ば露《あらは》した彼女の胸が軽く、わしの腕を圧するのを感じるのである。わしは此様な熾烈な快楽を味つた事はない。其間にわしは凡ての事を忘れてゐた。わしが僧侶だつたと云ふ事を覚えてゐるのも、わしが母の腹の中にゐた事を覚えてゐるのと同じ程にしか考へられなかつた。此悪魔がわしの上にかけた蠱惑は、是程大きかつたのである。其夜からわしの性質は、或意味に於て二等分されたやうに思はれる。云はゞわしの内に二人の人がゐて、それが互に知らずにゐるのである。或時はわしは自分が夜になると紳士になつた夢を見る僧侶だと思ふが、又或時には、僧侶になつた夢を見てゐる紳士だと思ふ事もある。わしは夢と現実とを分つ事も出来なければ、何処に現実が始まり、何処に夢が定るかさへも見出す事が出来なかつた。貴公子の道楽者は僧侶を馬鹿にするし、僧侶は、貴公子の放埒を罵るのである。互にもつれ合ひながら、しかも互に触れる事のない二つの螺線は、わしの此|二面《ふたおもて》の生活を、遺憾なく示してゐる。しかしわしは、此状態が此様な不思議な性質を持つてゐるにも拘らず、一分でも気違ひになる気などは起らなかつた。わしは常に、思切つて溌剌とした心で、わしの二つの生活を気長く観照してゐたのである。が、唯一つ、わしにも説明の出来ない妙な事があつた――即ちそれは同じ個人性の意識が、全く性格の背反した二人の人間の中に存在してゐたと云ふ事である。わしが自らC――の寒村の牧師補と思つたか、クラリモンドの肩書附きの恋人、ロムアルドオ閣下と思つたか、どうか――これがわしの不思議に思ふ一つの変則なのである。
 兎も角も、わしはヴェニスに住んだ。少くも住んだと信じてゐた。わしが此幻怪な事実の中にどれ程の幻想と印象とが含まれてゐるかを正確に発見するのは到底不可能である。わし達は、カナレイオの辺《ほとり》の、壁画と石像との沢山ある、大きな宮殿に住んでゐた、それは一国の王宮にしても恥しくないやうな宮殿で、わし達は各々ゴンドラの制服を着たバルカロリも、音楽室も、御抱への詩人も持つてゐた。殊にクラリモンドは、大規模な生活を恣にするのが常であつた。彼
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