晩、僕はあるレストランの隅にT君とテエブルを囲んでいた。
「君はイイナがあの晩以来、確か左の薬指《くすりゆび》に繃帯《ほうたい》していたのに気がついているかい?」
「そう云えば繃帯していたようだね。」
「イイナはあの晩ホテルへ帰ると、……」
「駄目《だめ》だよ、君、それを飲んじゃ。」
僕はT君に注意した。薄い光のさしたグラスの中にはまだ小さい黄金虫《こがねむし》が一匹、仰向《あおむ》けになってもがいていた。T君は白葡萄酒《しろぶどうしゅ》を床《ゆか》へこぼし、妙な顔をしてつけ加えた。
「皿を壁へ叩きつけてね、そのまた欠片《かけら》をカスタネットの代りにしてね、指から血の出るのもかまわずにね、……」
「カルメンのように踊ったのかい?」
そこへ僕等の興奮とは全然つり合わない顔をした、頭の白い給仕が一人、静に鮭《さけ》の皿を運んで来た。……
[#地から1字上げ](大正十五年四月十日)
底本:「芥川龍之介全集6」ちくま文庫、筑摩書房
1987(昭和62)年3月24日第1刷発行
1993(平成5)年2月25日第6刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
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