オた。
婆さんは呪文を唱へてしまふと、今度は妙子をめぐりながら、いろいろな手ぶりをし始めました。或時は前へ立つた儘、両手を左右に挙げて見たり、又或時は後へ来て、まるで眼かくしでもするやうに、そつと妙子の額《ひたひ》の上へ手をかざしたりするのです。もしこの時部屋の外から、誰か婆さんの容子《ようす》を見てゐたとすれば、それはきつと大きな蝙蝠《かうもり》か何かが、蒼白い香炉の火の光の中に、飛びまはつてでもゐるやうに見えたでせう。
その内に妙子はいつものやうに、だんだん睡気《ねむけ》がきざして来ました。が、ここで睡つてしまつては、折角の計略にかけることも、出来なくなつてしまふ道理です。さうしてこれが出来なければ、勿論二度とお父さんの所へも、帰れなくなるのに違ひありません。
「日本の神々様、どうか私が睡らないやうに、御守りなすつて下さいまし。その代り私はもう一度、たとひ一目でもお父さんの御顔を見ることが出来たなら、すぐに死んでもよろしうございます。日本の神々様、どうかお婆さんを欺《だま》せるやうに、御力を御貸し下さいまし。」
妙子は何度も心の中に、熱心に祈りを続けました。しかし睡気はおひおひと、強くなつて来るばかりです。と同時に妙子の耳には、丁度|銅鑼《どら》でも鳴らすやうな、得体《えたい》の知れない音楽の声が、かすかに伝はり始めました。これはいつでもアグニの神が、空から降りて来る時に、きつと聞える声なのです。
もうかうなつてはいくら我慢しても、睡らずにゐることは出来ません。現に目の前の香炉の火や、印度人の婆さんの姿でさへ、気味の悪い夢が薄れるやうに、見る見る消え失せてしまふのです。
「アグニの神、アグニの神、どうか私の申すことを御聞き入れ下さいまし。」
やがてあの魔法使ひが、床《ゆか》の上にひれ伏した儘、嗄《しはが》れた声を挙げた時には、妙子は椅子に坐りながら、殆ど生死も知らないやうに、いつかもうぐつすり寝入つてゐました。
五
妙子は勿論婆さんも、この魔法を使ふ所は、誰の眼にも触れないと、思つてゐたのに違ひありません。しかし実際は部屋の外に、もう一人戸の鍵穴から、覗《のぞ》いてゐる男があつたのです。それは一体誰でせうか?――言ふまでもなく、書生の遠藤です。
遠藤は妙子の手紙を見てから、一時は往来《わうらい》に立つたなり、夜明けを待たうかとも思ひました。が、お嬢さんの身の上を思ふと、どうしてもぢつとしてはゐられません。そこでとうとう盗人のやうに、そつと家の中へ忍びこむと、早速この二階の戸口へ来て、さつきから透《す》き見《み》をしてゐたのです。
しかし透き見をすると言つても、何しろ鍵穴を覗くのですから、蒼白い香炉《かうろ》の火の光を浴びた、死人のやうな妙子の顔が、やつと正面に見えるだけです。その外は机も、魔法の書物も、床にひれ伏した婆さんの姿も、まるで遠藤の眼にははひりません。しかし嗄《しはが》れた婆さんの声は、手にとるやうにはつきり聞えました。
「アグニの神、アグニの神、どうか私の申すことを御聞き入れ下さいまし。」
婆さんがかう言つたと思ふと、息もしないやうに坐つてゐた妙子は、やはり眼をつぶつた儘、突然口を利き始めました。しかもその声がどうしても、妙子のやうな少女とは思はれない、荒々しい男の声なのです。
「いや、おれはお前の願ひなぞは聞かない。お前はおれの言ひつけに背《そむ》いて、いつも悪事ばかり働いて来た。おれはもう今夜限り、お前を見捨てようと思つてゐる。いや、その上に悪事の罰を下《くだ》してやらうと思つてゐる。」
婆さんは呆気《あつけ》にとられたのでせう。暫《しばら》くは何とも答へずに、喘《あへ》ぐやうな声ばかり立ててゐました。が、妙子は婆さんに頓着せず、おごそかに話し続けるのです。
「お前は憐れな父親の手から、この女の子を盗んで来た。もし命が惜しかつたら、明日とも言はず今夜の内に、早速この女の子を返すが好い。」
遠藤は鍵穴に眼を当てた儘、婆さんの答を待つてゐました。すると婆さんは驚きでもするかと思ひの外、憎々しい笑ひ声を洩らしながら、急に妙子の前へ突つ立ちました。
「人を莫迦《ばか》にするのも、好い加減におし。お前は私を何だと思つてゐるのだえ。私はまだお前に欺《だま》される程、耄碌《まうろく》はしてゐない心算《つもり》だよ。早速お前を父親へ返せ――警察の御役人ぢやあるまいし、アグニの神がそんなことを御言ひつけになつてたまるものか。」
婆さんはどこからとり出したか、眼をつぶつた妙子の顔の先へ、一挺のナイフを突きつけました。
「さあ、正直に白状おし。お前は勿体《もつたい》なくもアグニの神の、声色《こわいろ》を使つてゐるのだらう。」
さつきから容子《ようす》を窺《うかが》つてゐても、妙子が実際睡つてゐることは、勿論遠藤にはわかりません。ですから遠藤はこれを見ると、さては計略が露顕《ろけん》したかと思はず胸を躍らせました。が、妙子は相変らず目蓋《まぶた》一つ動かさず、嘲笑《あざわら》ふやうに答へるのです。
「お前も死に時が近づいたな。おれの声がお前には人間の声に聞えるのか。おれの声は低くとも、天上に燃える炎の声だ。それがお前にはわからないのか。わからなければ、勝手にするが好い。おれは唯お前に尋ねるのだ。すぐにこの女の子を送り返すか、それともおれの言ひつけに背くか――」
婆さんはちよいとためらつたやうです。が、忽《たちま》ち勇気をとり直すと、片手にナイフを振りながら、片手に妙子の頭髪を掴んで、ずるずる手もとへ引き寄せました。
「この阿魔《あま》め。まだ剛情を張る気だな。よし、よし、それなら約束通り、一思ひに命をとつてやるぞ。」
婆さんはナイフを振り上げました。もう一分間遅れても、妙子の命はなくなります。遠藤は咄嗟《とつさ》に身を起すと、錠のかかつた入口の戸を無理無体に明けようとしました。が、戸は容易に破れません。いくら押しても、叩いても、手の皮が摺《す》り剥《む》けるばかりです。
六
その内に部屋の中からは、誰かのわつと叫ぶ声が、突然暗やみに響きました。それから人が床の上へ、倒れる音も聞えたやうです。遠藤は殆ど気違ひのやうに、妙子の名前を呼びかけながら、全身の力を肩に集めて、何度も入口の戸へぶつかりました。
板の裂ける音、錠のはね飛ぶ音、――戸はとうとう破れました。しかし肝腎の部屋の中は、まだ香炉に蒼白い火がめらめら燃えてゐるばかり、人気のないやうにしんとしてゐます。
遠藤はその光を便りに、怯《お》づ怯《お》づあたりを見廻しました。
するとすぐに眼にはひつたのは、やはりぢつと椅子にかけた、死人のやうな妙子です。それが何故《なぜ》か遠藤には、頭に毫光《ごくわう》でもかかつてゐるやうに、厳かな感じを起させました。
「御嬢さん、御嬢さん。」
遠藤は椅子の側へ行くと、妙子の耳もとへ口をつけて、一生懸命に叫び立てました。が、妙子は眼をつぶつたなり、何とも口を開きません。
「御嬢さん。しつかりおしなさい。遠藤です。」
妙子はやつと夢がさめたやうに、かすかな眼を開きました。
「遠藤さん?」
「さうです。遠藤です。もう大丈夫ですから、御安心なさい。さあ、早く逃げませう。」
妙子はまだ夢現《ゆめうつつ》のやうに、弱々しい声を出しました。
「計略は駄目だつたわ。つい私が眠つてしまつたものだから、――堪忍《かんにん》して頂戴よ。」
「計略が露顕《ろけん》したのは、あなたのせゐぢやありませんよ。あなたは私と約束した通り、アグニの神の憑《かか》つた真似をやり了《おほ》せたぢやありませんか?――そんなことはどうでも好いことです。さあ、早く御逃げなさい。」
遠藤はもどかしさうに、椅子から妙子を抱き起しました。
「あら、嘘。私は眠つてしまつたのですもの。どんなことを言つたか、知りはしないわ。」
妙子は遠藤の胸に凭《もた》れながら、呟《つぶや》くやうにかう言ひました。
「計略は駄目だつたわ。とても私は逃げられなくてよ。」
「そんなことがあるものですか。私と一しよにいらつしやい。今度しくじつたら大変です。」
「だつてお婆さんがゐるでせう?」
「お婆さん。」
遠藤はもう一度、部屋の中を見廻しました。机の上にはさつきの通り、魔法の書物が開いてある、――その下へ仰向《あふむ》きに倒れてゐるのは、あの印度人の婆さんです。婆さんは意外にも自分の胸へ、自分のナイフを突き立てた儘、血だまりの中に死んでゐました。
「お婆さんはどうして?」
「死んでゐます。」
妙子は遠藤を見上げながら、美しい眉をひそめました。
「私、ちつとも知らなかつたわ。お婆さんは遠藤さんが――あなたが殺してしまつたの?」
遠藤は婆さんの屍骸《しがい》から、妙子の顔へ眼をやりました。今夜の計略が失敗したことが、――しかしその為に婆さんも死ねば、妙子も無事に取り返せたことが、――運命の力の不思議なことが、やつと遠藤にもわかつたのは、この瞬間だつたのです。
「私が殺したのぢやありません。あの婆さんを殺したのは今夜ここへ来たアグニの神です。」
遠藤は妙子を抱《かか》へた儘、おごそかにかう囁《ささや》きました。
[#地から2字上げ](大正九年十二月)
底本:「現代日本文学大系43芥川龍之介集」筑摩書房
1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1998年12月11日公開
2004年2月8日修正
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