まだ夢現《ゆめうつつ》のやうに、弱々しい声を出しました。
「計略は駄目だつたわ。つい私が眠つてしまつたものだから、――堪忍《かんにん》して頂戴よ。」
「計略が露顕《ろけん》したのは、あなたのせゐぢやありませんよ。あなたは私と約束した通り、アグニの神の憑《かか》つた真似をやり了《おほ》せたぢやありませんか?――そんなことはどうでも好いことです。さあ、早く御逃げなさい。」
 遠藤はもどかしさうに、椅子から妙子を抱き起しました。
「あら、嘘。私は眠つてしまつたのですもの。どんなことを言つたか、知りはしないわ。」
 妙子は遠藤の胸に凭《もた》れながら、呟《つぶや》くやうにかう言ひました。
「計略は駄目だつたわ。とても私は逃げられなくてよ。」
「そんなことがあるものですか。私と一しよにいらつしやい。今度しくじつたら大変です。」
「だつてお婆さんがゐるでせう?」
「お婆さん。」
 遠藤はもう一度、部屋の中を見廻しました。机の上にはさつきの通り、魔法の書物が開いてある、――その下へ仰向《あふむ》きに倒れてゐるのは、あの印度人の婆さんです。婆さんは意外にも自分の胸へ、自分のナイフを突き立てた儘、血だまりの中に死んでゐました。
「お婆さんはどうして?」
「死んでゐます。」
 妙子は遠藤を見上げながら、美しい眉をひそめました。
「私、ちつとも知らなかつたわ。お婆さんは遠藤さんが――あなたが殺してしまつたの?」
 遠藤は婆さんの屍骸《しがい》から、妙子の顔へ眼をやりました。今夜の計略が失敗したことが、――しかしその為に婆さんも死ねば、妙子も無事に取り返せたことが、――運命の力の不思議なことが、やつと遠藤にもわかつたのは、この瞬間だつたのです。
「私が殺したのぢやありません。あの婆さんを殺したのは今夜ここへ来たアグニの神です。」
 遠藤は妙子を抱《かか》へた儘、おごそかにかう囁《ささや》きました。
[#地から2字上げ](大正九年十二月)



底本:「現代日本文学大系43芥川龍之介集」筑摩書房
   1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1998年12月11日公開
2004年2月8日修正
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