藤にはわかりません。ですから遠藤はこれを見ると、さては計略が露顕《ろけん》したかと思はず胸を躍らせました。が、妙子は相変らず目蓋《まぶた》一つ動かさず、嘲笑《あざわら》ふやうに答へるのです。
「お前も死に時が近づいたな。おれの声がお前には人間の声に聞えるのか。おれの声は低くとも、天上に燃える炎の声だ。それがお前にはわからないのか。わからなければ、勝手にするが好い。おれは唯お前に尋ねるのだ。すぐにこの女の子を送り返すか、それともおれの言ひつけに背くか――」
婆さんはちよいとためらつたやうです。が、忽《たちま》ち勇気をとり直すと、片手にナイフを振りながら、片手に妙子の頭髪を掴んで、ずるずる手もとへ引き寄せました。
「この阿魔《あま》め。まだ剛情を張る気だな。よし、よし、それなら約束通り、一思ひに命をとつてやるぞ。」
婆さんはナイフを振り上げました。もう一分間遅れても、妙子の命はなくなります。遠藤は咄嗟《とつさ》に身を起すと、錠のかかつた入口の戸を無理無体に明けようとしました。が、戸は容易に破れません。いくら押しても、叩いても、手の皮が摺《す》り剥《む》けるばかりです。
六
その内に部屋の中からは、誰かのわつと叫ぶ声が、突然暗やみに響きました。それから人が床の上へ、倒れる音も聞えたやうです。遠藤は殆ど気違ひのやうに、妙子の名前を呼びかけながら、全身の力を肩に集めて、何度も入口の戸へぶつかりました。
板の裂ける音、錠のはね飛ぶ音、――戸はとうとう破れました。しかし肝腎の部屋の中は、まだ香炉に蒼白い火がめらめら燃えてゐるばかり、人気のないやうにしんとしてゐます。
遠藤はその光を便りに、怯《お》づ怯《お》づあたりを見廻しました。
するとすぐに眼にはひつたのは、やはりぢつと椅子にかけた、死人のやうな妙子です。それが何故《なぜ》か遠藤には、頭に毫光《ごくわう》でもかかつてゐるやうに、厳かな感じを起させました。
「御嬢さん、御嬢さん。」
遠藤は椅子の側へ行くと、妙子の耳もとへ口をつけて、一生懸命に叫び立てました。が、妙子は眼をつぶつたなり、何とも口を開きません。
「御嬢さん。しつかりおしなさい。遠藤です。」
妙子はやつと夢がさめたやうに、かすかな眼を開きました。
「遠藤さん?」
「さうです。遠藤です。もう大丈夫ですから、御安心なさい。さあ、早く逃げませう。」
妙子は
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