ろにきちりと膝を重ねた儘、小さい煙管《きせる》を啣《くは》へてゐた。時時わたしの顔を見ては、何も云はずにほほ笑《ゑ》みながら。
(何かと思へば竹の枝か、今年《ことし》生えた竹の枝か。)
この白茶《しろちや》の博多《はかた》の帯は幼いわたしが締めた物である。わたしは脾弱《ひよわ》い子供だつた。同時に又早熟な子供だつた。わたしの記憶には色の黒い童女の顔が浮んで来る。なぜその童女を恋ふやうになつたか? 現在のわたしの眼から見れば、寧《むし》ろ醜《みにく》いその童女を。さう云ふ疑問に答へられるものはこの一筋の帯だけであらう。わたしは唯|樟脳《しやうなう》に似た思ひ出の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《にほひ》を知るばかりである。
(竹の枝は吹かれてゐる。娑婆界《しやばかい》の風に吹かれてゐる。)
線香
[#ここから2字下げ]
わたしは偶然|垂《た》れ布《ぬの》を掲《かか》げた。……
妙に薄曇つた六月の或朝。
八大胡同《はちだいことう》の妓院《ぎゐん》の或部屋。
[#ここで字下げ終わり]
垂《た》れ布《ぬの》を掲げた部屋の中には大きい黒檀《こくたん》の円卓《テエブル》に、美しい支那《しな》の少女が一人《ひとり》、白衣《びやくえ》の両肘《りやうひぢ》をもたせてゐた。
わたしは無躾《ぶしつけ》を恥ぢながら、もと通り垂れ布を下《おろ》さうとした。が、ふと妙に思つた事には、少女は黙然《もくねん》と坐つたなり、頭の位置さへも変へようとしない。いや、わたしの存在にも全然気のつかぬ容子《ようす》である。
わたしは少女に目を注《そそ》いだ。すると少女は意外にも幽《かす》かに※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《まぶた》をとざしてゐる。年は十五か十六であらう。顔はうつすり白粉《おしろい》を刷《は》いた、眉《まゆ》の長い瓜実顔《うりざねがほ》である。髪は水色の紐に結《むす》んだ、日本の少女と同じ下げ髪、着てゐる白衣《びやくえ》は流行を追つた、仏蘭西《フランス》の絹か何からしい。その又柔かな白衣の胸には金剛石《ダイアモンド》のブロオチが一つ、水水しい光を放つてゐる。
少女は明《めい》を失つたのであらうか? いや、少女の鼻のさきには、小さい銅の蓮華《れんげ》の香炉《かうろ》に線香が一本煙つてゐる。その一本の線香の細さ、立ち昇る煙のたよたよしさ、――少女は勿論《もちろん》目を閉ぢたなり、線香の薫《かほ》りを嗅《か》いでゐるのである。
わたしは足音を盗みながら、円卓《テエブル》の前へ歩み寄つた。少女はそれでも身ぢろぎをしない。大きい黒檀の円卓《テエブル》は丁度《ちやうど》澄み渡つた水のやうに、ひつそりと少女を映《うつ》してゐる。顔、白衣《びやくえ》、金剛石《ダイアモンド》のブロオチ――何一つ動いてゐるものはない。その中に唯線香だけは一点の火をともした先に、ちらちらと煙を動かしてゐる。
少女はこの一※[#「火+主」、第3水準1−87−40]《いつしゆ》の香《かう》に清閑《せいかん》を愛してゐるのであらうか? いや、更に気をつけて見ると、少女の顔に現れてゐるのはさう云ふ落着いた感情ではない。鼻翼《びよく》は絶えず震えてゐる。脣《くちびる》も時時ひき攣《つ》るらしい。その上ほのかに静脈《じやうみやく》の浮いた、華奢《きやしや》な顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》のあたりには薄い汗さへも光つてゐる。……
わたしは咄嗟《とつさ》に発見した。この顔に漲《みなぎ》る感情の何かを!
妙に薄曇つた六月の或朝。
八大胡同《はちだいことう》の妓院の或部屋。
わたしはその後《ご》、幸か不幸か、この美しい少女の顔程、病的な性慾に悩まされた、いたいたしい顔に遇《あ》つたことはない。
日本の聖母
山田右衛門作《やまだゑもさく》は天草《あまくさ》の海べに聖母|受胎《じゆたい》の油画《あぶらゑ》を作つた。するとその夜《よ》聖母「まりや」は夢の階段を踏みながら、彼の枕もとへ下《くだ》つて来た。
「右衛門作《ゑもさく》! これは誰の姿ぢや?」
「まりや」は画《ゑ》の前に立ち止まると、不服さうに彼を振り返つた。
「あなた様のお姿でございます。」
「わたしの姿! これがわたしに似てゐるであらうか、この顔の黄色い娘が?」
「それは似て居らぬ筈でございます。――」
右衝門作《ゑもさく》は叮嚀《ていねい》に話しつづけた。
「わたしはこの国の娘のやうに、あなた様のお姿を描《か》き上げました。しかもこれは御覧の通り、田植《たうゑ》の装束《しやうぞく》でございます。けれども円光《ゑんくわう》がございますから、世の常の女人《によにん》とは思はれますまい。
「後《うし》ろに見えるのは雨上《あまあが》りの水田《すゐでん》、水田の向
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