論《もちろん》目を閉ぢたなり、線香の薫《かほ》りを嗅《か》いでゐるのである。
 わたしは足音を盗みながら、円卓《テエブル》の前へ歩み寄つた。少女はそれでも身ぢろぎをしない。大きい黒檀の円卓《テエブル》は丁度《ちやうど》澄み渡つた水のやうに、ひつそりと少女を映《うつ》してゐる。顔、白衣《びやくえ》、金剛石《ダイアモンド》のブロオチ――何一つ動いてゐるものはない。その中に唯線香だけは一点の火をともした先に、ちらちらと煙を動かしてゐる。
 少女はこの一※[#「火+主」、第3水準1−87−40]《いつしゆ》の香《かう》に清閑《せいかん》を愛してゐるのであらうか? いや、更に気をつけて見ると、少女の顔に現れてゐるのはさう云ふ落着いた感情ではない。鼻翼《びよく》は絶えず震えてゐる。脣《くちびる》も時時ひき攣《つ》るらしい。その上ほのかに静脈《じやうみやく》の浮いた、華奢《きやしや》な顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》のあたりには薄い汗さへも光つてゐる。……
 わたしは咄嗟《とつさ》に発見した。この顔に漲《みなぎ》る感情の何かを!
 妙に薄曇つた六月の或朝。
 八大胡同《はちだいことう》の妓院の或部屋。
 わたしはその後《ご》、幸か不幸か、この美しい少女の顔程、病的な性慾に悩まされた、いたいたしい顔に遇《あ》つたことはない。

     日本の聖母

 山田右衛門作《やまだゑもさく》は天草《あまくさ》の海べに聖母|受胎《じゆたい》の油画《あぶらゑ》を作つた。するとその夜《よ》聖母「まりや」は夢の階段を踏みながら、彼の枕もとへ下《くだ》つて来た。
「右衛門作《ゑもさく》! これは誰の姿ぢや?」
「まりや」は画《ゑ》の前に立ち止まると、不服さうに彼を振り返つた。
「あなた様のお姿でございます。」
「わたしの姿! これがわたしに似てゐるであらうか、この顔の黄色い娘が?」
「それは似て居らぬ筈でございます。――」
 右衝門作《ゑもさく》は叮嚀《ていねい》に話しつづけた。
「わたしはこの国の娘のやうに、あなた様のお姿を描《か》き上げました。しかもこれは御覧の通り、田植《たうゑ》の装束《しやうぞく》でございます。けれども円光《ゑんくわう》がございますから、世の常の女人《によにん》とは思はれますまい。
「後《うし》ろに見えるのは雨上《あまあが》りの水田《すゐでん》、水田の向
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