とだらしはありませんでね。何をどうしたんだか、今朝《けさ》になってみると、まるで夢のような始末で」と月並な嘘を云っているが、実は踊ったのも、眠てしまったのも、いまだにちゃんと覚えている。そうして、その記憶に残っている自分と今日の自分と比較すると、どうしても同じ人間だとは思われない。それなら、どっちの平吉がほんとうの平吉かと云うと、これも彼には、判然とわからない。酔っているのは一時で、しらふでいるのは始終である。そうすると、しらふでいる時の平吉の方が、ほんとうの平吉のように思われるが、彼自身では妙にどっちとも云い兼ねる。何故かと云うと、平吉が後で考えて、莫迦《ばか》莫迦しいと思う事は、大抵酔った時にした事ばかりである。馬鹿踊はまだ好い。花を引く。女を買う。どうかすると、ここに書けもされないような事をする。そう云う事をする自分が、正気の自分だとは思われない。
Janus の云う神様には、首が二つある。どっちがほんとうの首だか知っている者は誰もいない。平吉もその通りである。
ふだんの平吉と酔っている時の平吉とはちがうと云った。そのふだんの平吉ほど、嘘をつく人間は少いかもしれない。これは平吉が自分で時々、そう思うのである。しかし、こう云ったからと云って、何も平吉が損得の勘定ずくで嘘をついていると云う訳では毛頭《もうとう》ない。第一彼は、ほとんど、嘘をついていると云う事を意識せずに、嘘をついている。もっともついてしまうとすぐ、自分でもそうと気がつくが、現についている時には、全然結果の予想などをする余裕は、無いのである。
平吉は自分ながら、何故そう嘘が出るのだかわからない。が人と話していると自然に云おうとも思わない嘘が出てしまう、しかし、格別それが苦《く》になる訣《わけ》でもない。悪い事をしたと云う気がする訳でもない。そこで平吉は、毎日平気で嘘をついている。
× × ×
平吉の口から出た話によると、彼は十一の年に南伝馬町《みなみでんまちょう》の紙屋へ奉公に行った。するとそこの旦那《だんな》は大の法華《ほっけ》気違いで、三度の飯も御題目を唱《とな》えない内は、箸をとらないと云った調子である。所が、平吉がお目見得《めみえ》をしてから二月ばかりするとそこのお上《か》みさんがふとした出来心から店の若い者と一しょになって着のみ
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