る代る漕いでいる。それでも船足は余り早くない。幕のかげから見える頭数は五十人もいるかと思われる。橋をくぐる前までは、二梃三味線で、「梅にも春」か何かを弾いていたが、それがすむと、急に、ちゃんぎりを入れた馬鹿|囃子《ばやし》が始まった。橋の上の見物がまた「わあっ」と哂《わら》い声を上げる。中には人ごみに押された子供の泣き声も聞える。「あらごらんよ、踊っているからさ」と云う甲走《かんばし》った女の声も聞える――船の上では、ひょっとこの面をかぶった背の低い男が、吹流しの下で、馬鹿踊を踊っているのである。
ひょっとこは、秩父銘仙《ちちぶめいせん》の両肌をぬいで、友禅《ゆうぜん》の胴へむき身絞《みしぼ》りの袖をつけた、派手な襦袢《じゅばん》を出している。黒八の襟がだらしなくはだけて、紺献上《こんけんじょう》の帯がほどけたなり、だらりと後へぶら下がっているのを見ても、余程、酔っているらしい。踊は勿論、出たらめである。ただ、いい加減に、お神楽堂の上の莫迦のような身ぶりだとか、手つきだとかを、繰返しているのにすぎない。それも酒で体が利かないと見えて、時々はただ、中心を失って舷《ふなばた》から落ちるのを防ぐために、手足を動かしているとしか、思われない事がある。
それがまた、一層|可笑《おか》しいので、橋の上では、わいわい云って、騒いでいる。そうして、皆、哂《わら》いながら、さまざまな批評を交換している。「どうだい、あの腰つきは」「いい気なもんだぜ、どこの馬の骨だろう」「おかしいねえ、あらよろけたよ」「一《いっ》そ素面《すめん》で踊りゃいいのにさ」――ざっとこんな調子である。
その内に、酔《よい》が利いて来たのか、ひょっとこの足取がだんだん怪しくなって来た。丁度、不規則な Metronome のように、お花見の手拭で頬かぶりをした頭が、何度も船の外へのめりそうになるのである。船頭も心配だと見えて、二度ばかり後《うしろ》から何か声をかけたが、それさえまるで耳にははいらなかったらしい。
すると、今し方通った川蒸汽の横波が、斜に川面《かわも》をすべって来て、大きく伝馬の底を揺《ゆす》り上げた。その拍子にひょっとこの小柄な体は、どんとそのあおりを食ったように、ひょろひょろ前の方へ三足ばかりよろけて行ったが、それがやっと踏止ったと思うと、今度はいきなり廻転を止められた独楽《こま》のように
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