青く澄んだ御眼《おんめ》」は、悲しみも悦びも超越した、不思議な表情を湛えている。――これは、「ナザレの木匠《もくしょう》の子」の教を信じない、ヨセフの心にさえ異常な印象を与えた。彼の言葉を借りれば、「それがしも、その頃やはり御主《おんあるじ》の眼を見る度に、何となくなつかしい気が起ったものでござる。大方《おおかた》死んだ兄と、よう似た眼をしていられたせいでもござろう。」
その中《うち》にクリストは、埃と汗とにまみれながら、折から通りかかった彼の戸口に足を止《とど》めて、暫く息を休めようとした。そこには、靱皮《なめしがわ》の帯をしめて、わざと爪を長くしたパリサイの徒もいた事であろうし、髪に青い粉をつけて、ナルドの油の匂をさせた娼婦たちもいた事であろう。あるいはまた、羅馬《ロオマ》の兵卒たちの持っている楯《たて》が、右からも左からも、眩《まばゆ》く暑い日の光を照りかえしていたかも知れない。が、記録にはただ、「多くの人々」と書いてある。そうして、ヨセフは、その「多くの人々の手前、祭司たちへの忠義ぶりが見せとうござったによって、」クリストの足を止めたのを見ると、片手に子供を抱《いだ》きながら、片手に「人の子」の肩を捕えて、ことさらに荒々しくこずきまわした。――「やがては、ゆるりと磔柱《はりき》にかって、休まるる体《からだ》じゃなど悪口《あっこう》し、あまつさえ手をあげて、打擲《ちょうちゃく》さえしたものでござる。」
すると、クリストは、静に頭をあげて、叱るようにヨセフを見た。彼が死んだ兄に似ていると思った眼で、厳《おごそか》にじっと見たのである。「行けと云うなら、行かぬでもないが、その代り、その方はわしの帰るまで、待って居れよ。」――クリストの眼を見ると共に、彼はこう云う語《ことば》が、熱風よりもはげしく、刹那に彼の心へ焼けつくような気もちがした。クリストが、実際こう云ったかどうか、それは彼自身にも、はっきりわからない。が、ヨセフは、「この呪《のろい》が心耳《しんじ》にとどまって、いても立っても居られぬような気に」なったのであろう。あげた手が自《おのずか》ら垂れ、心頭にあった憎しみが自ら消えると、彼は、子供を抱いたまま、思わず往来に跪《ひざまず》いて、爪を剥《は》がしているクリストの足に、恐る恐る唇をふれようとした。が、もう遅い。クリストは、兵卒たちに追い立てられて、すでに五六歩彼の戸口を離れている。ヨセフは、茫然として、ややともすると群集にまぎれようとする御主《おんあるじ》の紫の衣を見送った。そうして、それと共に、云いようのない後悔の念が、心の底から動いて来るのを意識した。しかし、誰一人彼に同情してくれるものはない。彼の妻や子でさえも、彼のこの所作《しょさ》を、やはり荊棘《いばら》の冠をかぶらせるのと同様、クリストに対する嘲弄《ちょうろう》だと解釈した。そして往来の人々が、いよいよ面白そうに笑い興じたのは、無理もない話である。――石をも焦がすようなエルサレムの日の光の中に、濛々と立騰《たちのぼ》る砂塵《さじん》をあびせて、ヨセフは眼に涙を浮べながら、腕の子供をいつか妻に抱《だ》きとられてしまったのも忘れて、いつまでも跪《ひざまず》いたまま、動かなかった。……「されば恐らく、えるされむは広しと云え、御主《おんあるじ》を辱《はずかし》めた罪を知っているものは、それがしひとりでござろう。罪を知ればこそ、呪もかかったのでござる。罪を罪とも思わぬものに、天の罰が下ろうようはござらぬ。云わば、御主を磔柱《はりき》にかけた罪は、それがしひとりが負うたようなものでござる。但し罰をうければこそ、贖《あがな》いもあると云う次第ゆえ、やがて御主の救抜《きゅうばつ》を蒙るのも、それがしひとりにきわまりました。罪を罪と知るものには、総じて罰と贖《あがな》いとが、ひとつに天から下るものでござる。」――「さまよえる猶太人」は、記録の最後で、こう自分の第二の疑問に答えている。この答の当否を穿鑿《せんさく》する必要は、暫くない。ともかくも答を得たと云う事が、それだけですでに自分を満足させてくれるからである。
「さまよえる猶太人」に関して、自分の疑問に対する答を、東西の古文書《こもんじょ》の中に発見した人があれば、自分は切《せつ》に、その人が自分のために高教を吝《おし》まない事を希望する。また自分としても、如上の記述に関する引用書目を挙げて、いささかこの小論文の体裁を完全にしたいのであるが、生憎《あいにく》そうするだけの余白が残っていない。自分はただここに、「さまよえる猶太人」の伝記の起源が、馬太伝《またいでん》の第十六章二十八節と馬可伝《まこでん》の第九章一節とにあると云うベリンググッドの説を挙げて、一先ずペンを止《とど》める事にしようと思う。
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