じい。」
「難儀かな。夜もすがら眠らいで居る事は如何あらう。」
「如何なこと、それがしは聞えた大寝坊でおぢやる。中々眠らいでは居られまじい。」
 それにはさすがの隠者の翁も、ほとほと言《ことば》のつぎ穂さへおぢやらなんだが、やがて掌《たなごころ》をはたと打つて、したり顔に申したは、
「ここを南に去ること一里がほどに、流沙河《りうさが》と申す大河がおぢやる。この河は水嵩《みづかさ》も多く、流れも矢を射る如くぢやによつて、日頃から人馬の渡りに難儀致すとか承つた。なれどごへんほどの大男には、容易《たやす》く徒渉《かちわた》りさへならうずる。さればごへんはこれよりこの河の渡し守となつて、往来の諸人を渡させられい。おのれ人に篤《あつ》ければ、天主も亦おのれに篤からう道理《ことわり》ぢや。」とあつたに、大男は大いに勇み立つて、
「如何にも、その流沙河とやらの渡し守になり申さうずる。」と云うた。ぢやによつて隠者の翁も、「れぷろぼす」が殊勝な志をことの外|悦《よろこ》んで、
「然《さ》らば唯今、御水《おんみづ》を授け申さうずる。」とあつて、おのれは水瓶《みづがめ》をかい抱きながら、もそもそと藁家の棟へ
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