呪文を読みかけ読みかけ、かつふつその悪魔《ぢやぼ》の申す事に耳を借さうず気色《けしき》すらおりない。されば傾城もかくてはなるまじいと気を苛《いらだ》つたか、つと地獄絵の裳《もすそ》を飜《ひるがへ》して、斜に隠者の膝へとすがつたと思へば、
「何としてさほどつれないぞ。」と、よよとばかりに泣い口説《くど》いた。と見るや否や隠者の翁は、蝎《さそり》に刺されたやうに躍り上つたが、早くも肌身につけた十字架《くるす》をかざいて、霹靂《はたたがみ》の如く罵《ののし》つたは、
「業畜《ごふちく》、御主《おんあるじ》『えす・きりしと』の下部《しもべ》に向つて無礼《むらい》あるまじいぞ。」と申しも果てず、てうと傾城の面《おもて》を打つた。打たれた傾城は落花の中に、なよなよと伏しまろんだが、忽ちその姿は見えずなつて、唯一むらの黒雲が湧き起つたと思ふほどに、怪しげな火花の雨が礫《つぶて》の如く乱れ飛んで、
「あら、痛や。又しても十字架《くるす》に打たれたわ。」と唸《うめ》く声が、次第に家の棟《むね》にのぼつて消えた。もとより隠者はかうあらうと心に期《ご》して居つたによつて、この間も秘密の真言《しんごん》を絶え
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