足るまじい、みめ清らかな白衣《びやくえ》のわらんべが、空をつんざいて飛ぶ稲妻の中に、頭を低《た》れて唯ひとり、佇んで居つたではおぢやるまいか。山男は稀有《けう》の思をないて、千引《ちびき》の巌にも劣るまじい大の体をかがめながら、慰めるやうに問ひ尋ねたは、
「おぬしは何としてかやうな夜更けにひとり歩くぞ。」と申したに、わらんべは悲しげな瞳をあげて、
「われらが父のもとへ帰らうとて。」と、もの思はしげな声で返答した。もとより「きりしとほろ」はこの答を聞いても、一向不審は晴れなんだが、何やらその渡りを急ぐ容子《ようす》があはれにやさしく覚えたによつて、
「然らば念無う渡さうずる。」と、双手《もろて》にわらんべをかい抱いて、日頃の如く肩へのせると、例の太杖をてうとついて、岸べの青蘆を押し分けながら、嵐に狂ふ夜河の中へ、胆太くもざんぶと身を浸《した》いた。が、風は黒雲を巻き落いて、息もつかすまじいと吹きどよもす。雨も川面《かはづら》を射白《いしら》まいて、底にも徹《とほ》らうずばかり降り注いだ。時折闇をかい破る稲妻の光に見てあれば、浪は一面に湧き立ち返つて、宙に舞上る水煙も、さながら無数の天使《あんぢよ》たちが雪の翼をはためかいて、飛びしきるかとも思ふばかりぢや。さればさすがの「きりしとほろ」も、今宵はほとほと渡りなやんで、太杖にしかとすがりながら、礎《いしずゑ》の朽ちた塔のやうに、幾度《いくたび》もゆらゆらと立ちすくんだが、雨風よりも更に難儀だつたは、怪《けし》からず肩のわらんべが次第に重うなつたことでおぢやる。始はそれもさばかりに、え堪へまじいとは覚えなんだが、やがて河の真唯中へさしかかつたと思ふほどに、白衣のわらんべが重みは愈《いよいよ》増《ま》いて、今は恰《あたか》も大磐石《だいばんじやく》を負ひないてゐるかと疑はれた。所で遂には「きりしとほろ」も、あまりの重さに圧し伏されて、所詮《しよせん》はこの流沙河に命を殞《おと》すべいと覚悟したが、ふと耳にはいつて来たは、例の聞き慣れた四十雀の声ぢや。はてこの闇夜に何として、小鳥が飛ばうぞと訝《いぶか》りながら、頭を擡《もた》げて空を見たれば、不思議やわらんべの面をめぐつて、三日月ほどな金光が燦爛《さんらん》と円《まる》く輝いたに、四十雀はみな嵐をものともせず、その金光のほとりに近く、紛々と躍り狂うて居つた。これを見た山男は、
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