ちおきや』の都に隠れもない遊びでおぢやる。近ごろ御僧のつれづれを慰めまゐらせうと存じたれば、はるばるこれまでまかり下つた。」とあつた。その声ざまの美しさは、極楽に棲《す》むとやら承つた伽陵頻伽《かりようびんが》にも劣るまじい。さればさすがに有験《うげん》の隠者もうかとその手に乗らうとしたが、思へばこの真夜中に幾百里とも知らぬ「あんちおきや」の都から、傾城《けいせい》などの来よう筈もおぢやらぬ。さては又しても悪魔《ぢやぼ》めの悪巧みであらうずと心づいたによつて、ひたと御経に眼を曝《さら》しながら、専念に陀羅尼《だらに》を誦《ず》し奉つて居つたに、傾城はかまへてこの隠者の翁を落さうと心にきはめつらう。蘭麝《らんじや》の薫を漂はせた綺羅《きら》の袂を弄《もてあそ》びながら、嫋々《たよたよ》としたさまで、さも恨めしげに歎いたは、
「如何《いか》に遊びの身とは申せ、千里の山河も厭《いと》はいで、この沙漠までまかり下つたを、さりとは曲《きよく》もない御方かな。」と申した。その姿の妙《たへ》にも美しい事は、散りしく桜の花の色さへ消えようずると思はれたが、隠者の翁は遍身《へんしん》に汗を流いて、降魔の呪文を読みかけ読みかけ、かつふつその悪魔《ぢやぼ》の申す事に耳を借さうず気色《けしき》すらおりない。されば傾城もかくてはなるまじいと気を苛《いらだ》つたか、つと地獄絵の裳《もすそ》を飜《ひるがへ》して、斜に隠者の膝へとすがつたと思へば、
「何としてさほどつれないぞ。」と、よよとばかりに泣い口説《くど》いた。と見るや否や隠者の翁は、蝎《さそり》に刺されたやうに躍り上つたが、早くも肌身につけた十字架《くるす》をかざいて、霹靂《はたたがみ》の如く罵《ののし》つたは、
「業畜《ごふちく》、御主《おんあるじ》『えす・きりしと』の下部《しもべ》に向つて無礼《むらい》あるまじいぞ。」と申しも果てず、てうと傾城の面《おもて》を打つた。打たれた傾城は落花の中に、なよなよと伏しまろんだが、忽ちその姿は見えずなつて、唯一むらの黒雲が湧き起つたと思ふほどに、怪しげな火花の雨が礫《つぶて》の如く乱れ飛んで、
「あら、痛や。又しても十字架《くるす》に打たれたわ。」と唸《うめ》く声が、次第に家の棟《むね》にのぼつて消えた。もとより隠者はかうあらうと心に期《ご》して居つたによつて、この間も秘密の真言《しんごん》を絶え
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