泣いてゐる。兎は何度も後をふりむきながら、舟の方へ歩いてゆく。その空には、舌切雀のかすかな羽音がして、あけ方の半透明な光も、何時か少しづつひろがつて来た。
 黒い舟の上には、さつきから、一頭の狸《たぬき》が、ぢつと波の音を聞いてゐる。これは龍宮の燈火《ともしび》の油をぬすむつもりであらうか。或は又、水の中に住む赤魚《あかめ》の恋を妬《ねた》んででもゐるのであらうか。
 兎は、狸の傍に近づいた。さうして、彼等は徐《おもむろ》に遠い昔の話をし始めた。彼等が、火の燃える山と砂の流れる河との間にゐて、おごそかに獣《けもの》の命《いのち》をまもつてゐた「むかしむかし」の話である。
 童話時代のうす明りの中に、一頭の兎と一頭の狸とは、それぞれ白い舟と黒い舟とに乗つて、静に夢の海へ漕《こ》いで出た。永久にくづれる事のない波は、善悪の舟をめぐつて、懶《ものう》い子守唄をうたつてゐる。
 花のない桜の木の下にゐた老人は、この時|漸《やうやく》頭をあげて、海の上へ眼をやつた。
 くもりながら、白く光つてゐる海の上には、二頭の獣が、最後の争ひをつづけてゐる。除《おもむろ》に沈んで行く黒い舟には、狸が乗つてゐ
前へ 次へ
全4ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング