Gの上の手紙や老眼鏡を片づけながら、蔑《さげす》むらしい笑いかたをした。するとお絹も妙な眼をしたが、これはすぐに気を変えて、
「何? 叔母さん、それは。」と云った。
「今神山さんに墨色《すみいろ》を見て来て貰ったんだよ。――洋ちゃん、ちょいとお母さんを見て来ておくれ。さっきよく休んでお出でだったけれど、――」
ひどく厭な気がしていた彼は金口を灰に突き刺すが早いか、叔母や姉の視線を逃れるように、早速長火鉢の前から立ち上った。そうして襖《ふすま》一つ向うの座敷へ、わざと気軽そうにはいって行った。
そこは突き当りの硝子障子《ガラスしょうじ》の外《そと》に、狭い中庭を透《す》かせていた。中庭には太い冬青《もち》の樹が一本、手水鉢《ちょうずばち》に臨んでいるだけだった。麻の掻巻《かいまき》をかけたお律《りつ》は氷嚢《ひょうのう》を頭に載せたまま、あちら向きにじっと横になっていた。そのまた枕もとには看護婦が一人、膝の上にひろげた病床日誌へ近眼の顔をすりつけるように、せっせと万年筆を動かしていた。
看護婦は洋一の姿を見ると、ちょいと媚《こび》のある目礼をした。洋一はその看護婦にも、はっきり異性を感じながら、妙に無愛想《ぶあいそう》な会釈《えしゃく》を返した。それから蒲団《ふとん》の裾《すそ》をまわって、母の顔がよく見える方へ坐った。
お律は眼をつぶっていた。生来|薄手《うすで》に出来た顔が一層今日は窶《やつ》れたようだった。が、洋一の差し覗《のぞ》いた顔へそっと熱のある眼をあけると、ふだんの通りかすかに頬笑《ほほえ》んで見せた。洋一は何だか叔母や姉と、いつまでも茶の間《ま》に話していた事がすまないような心もちになった。お律はしばらく黙っていてから、
「あのね」とさも大儀《たいぎ》そうに云った。
洋一はただ頷《うなず》いて見せた。その間も母の熱臭いのがやはり彼には不快だった。しかしお律はそう云ったぎり、何とも後《あと》を続けなかった。洋一はそろそろ不安になった。遺言《ゆいごん》、――と云う考えも頭へ来た。
「浅川の叔母さんはまだいるでしょう?」
やっと母は口を開いた。
「叔母さんもいるし、――今し方姉さんも来た。」
「叔母さんにね、――」
「叔母さんに用があるの?」
「いいえ、叔母さんに梅川《うめがわ》の鰻《うなぎ》をとって上げるの。」
今度は洋一が微笑した。
「美津にそう云ってね。好いかい?――それでおしまい。」
お律はこう云い終ると、頭の位置を変えようとした。その拍子に氷嚢《ひょうのう》が辷り落ちた。洋一は看護婦の手を借りずに、元通りそれを置き直した。するとなぜか※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《まぶた》の裏が突然熱くなるような気がした。「泣いちゃいけない。」――彼は咄嗟《とっさ》にそう思った。が、もうその時は小鼻の上に涙のたまるのを感じていた。
「莫迦《ばか》だね。」
母はかすかに呟《つぶや》いたまま、疲れたようにまた眼をつぶった。
顔を赤くした洋一は、看護婦の見る眼を恥じながら、すごすご茶の間《ま》へ帰って来た。帰って来ると浅川の叔母《おば》が、肩越しに彼の顔を見上げて、
「どうだえ? お母さんは。」と声をかけた。
「目がさめています。」
「目はさめているけれどさ。」
叔母はお絹と長火鉢越しに、顔を見合せたらしかった。姉は上眼《うわめ》を使いながら、笄《かんざし》で髷《まげ》の根を掻《か》いていたが、やがてその手を火鉢へやると、
「神山さんが帰って来た事は云わなかったの?」と云った。
「云わない。姉さんが行って云うと好いや。」
洋一は襖側《ふすまぎわ》に立ったなり、緩《ゆる》んだ帯をしめ直していた。どんな事があってもお母さんを死なせてはならない。どんな事があっても――そう一心に思いつめながら、…………
二
翌日《あくるひ》の朝|洋一《よういち》は父と茶の間《ま》の食卓に向った。食卓の上には、昨夜《ゆうべ》泊った叔母《おば》の茶碗も伏せてあった。が、叔母は看護婦が、長い身じまいをすませる間《あいだ》、母の側へその代りに行っているとか云う事だった。
親子は箸《はし》を動かしながら、時々短い口を利《き》いた。この一週間ばかりと云うものは、毎日こう云う二人きりの、寂しい食事が続いている。しかし今日《きょう》はいつもよりは、一層二人とも口が重かった。給仕の美津《みつ》も無言のまま、盆をさし出すばかりだった。
「今日は慎太郎《しんたろう》が帰って来るかな。」
賢造《けんぞう》は返事を予期するように、ちらりと洋一の顔を眺めた。が、洋一は黙っていた。兄が今日帰るか帰らないか、――と云うより一体帰るかどうか、彼には今も兄の意志が、どうも不確かでならないのだった。
「それとも明日《あす》の朝になるか?」
今度は洋一も父の言葉に、答えない訳には行かなかった。
「しかし今は学校がちょうど、試験じゃないかと思うんですがね。」
「そうか。」
賢造は何か考えるように、ちょいと言葉を途切《とぎ》らせたが、やがて美津に茶をつがせながら、
「お前も勉強しなくっちゃいけないぜ。慎太郎はもうこの秋は、大学生になるんだから。」と云った。
洋一は飯を代えながら、何とも返事をしなかった。やりたい文学もやらせずに、勉強ばかり強いるこの頃の父が、急に面憎《つらにく》くなったのだった。その上兄が大学生になると云う事は、弟が勉強すると云う事と、何も関係などはありはしない。――そうまた父の論理の矛盾《むじゅん》を嘲笑《あざわら》う気もちもないではなかった。
「お絹《きぬ》は今日は来ないのかい?」
賢造はすぐに気を変えて云った。
「来るそうです。が、とにかく戸沢《とざわ》さんが来たら、電話をかけてくれって云っていました。」
「お絹の所でも大変だろう。今度はあすこも買った方だから。」
「やっぱりちっとはすった[#「すった」に傍点]かしら。」
洋一ももう茶を飲んでいた。この四月以来|市場《しじょう》には、前代未聞《ぜんだいみもん》だと云う恐慌《きょうこう》が来ている。現に賢造の店などでも、かなり手広くやっていた、ある大阪の同業者が突然破産したために、最近も代払《だいばら》いの厄に遇った。そのほかまだ何だ彼《か》だといろいろな打撃を通算したら、少くとも三万円内外は損失を蒙《こうむ》っているのに相違ない。――そんな事も洋一は、小耳に挟んでいたのだった。
「ちっとやそっとでいてくれりゃ好《い》いが、――何しろこう云う景気じゃ、いつ何時《なんどき》うちなんぞも、どんな事になるか知れないんだから、――」
賢造は半ば冗談のように、心細い事を云いながら、大儀そうに食卓の前を離れた。それから隔ての襖《ふすま》を明けると、隣の病室へはいって行った。
「ソップも牛乳もおさまった? そりゃ今日は大出来《おおでき》だね。まあ精々《せいぜい》食べるようにならなくっちゃいけない。」
「これで薬さえ通ると好いんですが、薬はすぐに吐いてしまうんでね。」
こう云う会話も耳へはいった。今朝は食事前に彼が行って見ると、母は昨日《きのう》一昨日《おととい》よりも、ずっと熱が低くなっていた。口を利《き》くのもはきはきしていれば、寝返りをするのも楽そうだった。「お肚《なか》はまだ痛むけれど、気分は大へん好くなったよ。」――母自身もそう云っていた。その上あんなに食気《しょっけ》までついたようでは、今まで心配していたよりも、存外|恢復《かいふく》は容易かも知れない。――洋一は隣を覗きながら、そう云う嬉しさにそやされていた。が、余り虫の好《い》い希望を抱き過ぎると、反《かえ》ってそのために母の病気が悪くなって来はしないかと云う、迷信じみた惧《おそ》れも多少はあった。
「若旦那様《わかだんなさま》、御電話でございます。」
洋一はやはり手をついたまま、声のする方を振り返った。美津《みつ》は袂《たもと》を啣《くわ》えながら、食卓に布巾《ふきん》をかけていた。電話を知らせたのはもう一人の、松《まつ》と云う年上の女中だった。松は濡れ手を下げたなり、銅壺《どうこ》の見える台所の口に、襷《たすき》がけの姿を現していた。
「どこだい?」
「どちらでございますか、――」
「しょうがないな、いつでもどちらでございますかだ。」
洋一は不服そうに呟きながら、すぐに茶の間《ま》を出て行った。おとなしい美津に負け嫌いの松の悪口《あっこう》を聞かせるのが、彼には何となく愉快なような心もちも働いていたのだった。
店の電話に向って見ると、さきは一しょに中学を出た、田村《たむら》と云う薬屋の息子だった。
「今日ね。一しょに明治座《めいじざ》を覗かないか? 井上だよ。井上なら行くだろう?」
「僕は駄目だよ。お袋が病気なんだから――」
「そうか。そりゃ失敬した。だが残念だね。昨日|堀《ほり》や何かは行って見たんだって。――」
そんな事を話し合った後《のち》、電話を切った洋一は、そこからすぐに梯子《はしご》を上《あが》って、例の通り二階の勉強部屋へ行った。が、机に向って見ても、受験の準備は云うまでもなく、小説を読む気さえ起らなかった。机の前には格子窓《こうしまど》がある、――その窓から外を見ると、向うの玩具問屋《おもちゃどんや》の前に、半天着《はんてんぎ》の男が自転車のタイアへ、ポンプの空気を押しこんでいた。何だかそれが洋一には、気忙《きぜわ》しそうな気がして不快だった。と云ってまた下へ下《お》りて行くのも、やはり気が進まなかった。彼はとうとう机の下の漢和辞書を枕にしながら、ごろりと畳に寝ころんでしまった。
すると彼の心には、この春以来顔を見ない、彼には父が違っている、兄の事が浮んで来た。彼には父が違っている、――しかしそのために洋一は、一度でも兄に対する情《じょう》が、世間普通の兄弟に変っていると思った事はなかった。いや、母が兄をつれて再縁したと云う事さえ、彼が知るようになったのは、割合に新しい事だった。ただ父が違っていると云えば、彼にはかなりはっきりと、こんな思い出が残っている。――
それはまだ兄や彼が、小学校にいる時分だった。洋一はある日慎太郎と、トランプの勝敗から口論をした。その時分から冷静な兄は、彼がいくらいきり立っても、ほとんど語気さえも荒立てなかった。が、時々|蔑《さげす》むようにじろじろ彼の顔を見ながら、一々彼をきめつけて行った。洋一はとうとうかっ[#「かっ」に傍点]となって、そこにあったトランプを掴《つか》むが早いか、いきなり兄の顔へ叩きつけた。トランプは兄の横顔に中《あた》って、一面にあたりへ散乱した。――と思うと兄の手が、ぴしゃりと彼の頬を撲《ぶ》った。
「生意気《なまいき》な事をするな。」
そう云う兄の声の下から、洋一は兄にかぶりついた。兄は彼に比べると、遥に体も大きかった。しかし彼は兄よりもがむしゃらな所に強味があった。二人はしばらく獣《けもの》のように、撲《なぐ》ったり撲られたりし合っていた。
その騒ぎを聞いた母は、慌ててその座敷へはいって来た。
「何をするんです? お前たちは。」
母の声を聞くか聞かない内に、洋一はもう泣き出していた。が、兄は眼を伏せたまま、むっつり佇《たたず》んでいるだけだった。
「慎太郎。お前は兄さんじゃないか? 弟を相手に喧嘩《けんか》なんぞして、何がお前は面白いんだえ?」
母にこう叱られると、兄はさすがに震え声だったが、それでも突かかるように返事をした。
「洋一が悪いんです。さきに僕の顔へトランプを叩きつけたんだもの。」
「嘘つき。兄さんがさきに撲《ぶ》ったんだい。」
洋一は一生懸命に泣き声で兄に反対した。
「ずる[#「ずる」に傍点]をしたのも兄さんだい。」
「何。」
兄はまた擬勢《ぎせい》を見せて、一足彼の方へ進もうとした。
「それだから喧嘩になるんじゃないか? 一体お前が年嵩《としかさ》な癖に勘弁《かんべん》してやらないのが悪いんです。」
母は洋一をかばいながら、小突くように兄を引き離した。すると兄の眼の色が、急
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