A姉がこう泣き声を張り上げると、彼は黙って畳の上の花簪を掴《つか》むが早いか、びりびりその花びらをむしり始めた。
「何をするのよ。慎ちゃん。」
姉はほとんど気違いのように、彼の手もとへむしゃぶりついた。
「こんな簪なんぞ入らないって云ったじゃないか? 入らなけりゃどうしたってかまわないじゃないか? 何だい、女の癖に、――喧嘩ならいつでも向って来い。――」
いつか泣いていた慎太郎は、菊の花びらが皆なくなるまで、剛情に姉と一本の花簪を奪い合った。しかし頭のどこかには、実母のない姉の心もちが不思議なくらい鮮《あざやか》に映《うつ》っているような気がしながら。――
慎太郎はふと耳を澄《すま》せた。誰かが音のしないように、暗い梯子《はしご》を上《あが》って来る。――と思うと美津《みつ》が上り口から、そっとこちらへ声をかけた。
「旦那様《だんなさま》」
眠っていると思った賢造は、すぐに枕から頭を擡《もた》げた。
「何だい?」
「お上《かみ》さんが何か御用でございます。」
美津の声は震えていた。
「よし、今行く。」
父が二階を下りて行った後《のち》、慎太郎は大きな眼を明いたまま、家中《い
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