フ口から出た。お絹は二人に会釈《えしゃく》をしながら、手早くコオトを脱ぎ捨てると、がっかりしたように横坐《よこずわ》りになった。その間《あいだ》に神山は、彼女の手から受け取った果物の籠をそこへ残して、気忙《きぜわ》しそうに茶の間を出て行った。果物の籠には青林檎《あおりんご》やバナナが綺麗《きれい》につやつやと並んでいた。
「どう? お母さんは。――御免なさいよ。電車がそりゃこむもんだから。」
 お絹はやはり横坐りのまま、器用に泥だらけの白足袋《しろたび》を脱いだ。洋一はその足袋を見ると、丸髷《まるまげ》に結《ゆ》った姉の身のまわりに、まだ往来の雨のしぶきが、感ぜられるような心もちがした。
「やっぱりお肚《なか》が痛むんでねえ。――熱もまだ九度《くど》からあるんだとさ。」
 叔母は易者《えきしゃ》の手紙をひろげたなり、神山と入れ違いに来た女中の美津《みつ》と、茶を入れる仕度に忙《いそが》しかった。
「あら、だって電話じゃ、昨日《きのう》より大変好さそうだったじゃありませんか? もっとも私は出なかったんですけれど、――誰? 今日電話をかけたのは。――洋ちゃん?」
「いいえ、僕じゃない。神山さんじゃないか?」
「さようでございます。」
 これは美津《みつ》が茶を勧《すす》めながら、そっとつけ加えた言葉だった。
「神山さん?」
 お絹ははすは[#「はすは」に傍点]に顔をしかめて、長火鉢の側へすり寄った。
「何だねえ。そんな顔をして。――お前さんの所はみんな御達者かえ?」
「ええ、おかげ様で、――叔母さんの所でも皆さん御丈夫ですか?」
 そんな対話を聞きながら、巻煙草を啣《くわ》えた洋一は、ぼんやり柱暦《はしらごよみ》を眺めていた。中学を卒業して以来、彼には何日《なんにち》と云う記憶はあっても、何曜日かは終始忘れている。――それがふと彼の心に、寂しい気もちを与えたのだった。その上もう一月すると、ほとんど受ける気のしない入学試験がやって来る。入学試験に及第しなかったら、………
「美津がこの頃は、大へん女ぶりを上げたわね。」
 姉の言葉が洋一には、急にはっきり聞えたような気がした。が、彼は何も云わずに、金口《きんぐち》をふかしているばかりだった。もっとも美津はその時にはとうにもう台所へ下《さが》っていた。
「それにあの人は何と云っても、男好きのする顔だから、――」
 叔母はやっと
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