ォ音を偸《ぬす》むようにはいって来た。なるほどどこかへ行った事は、袖《そで》に雨《あま》じみの残っている縞絽《しまろ》の羽織にも明らかだった。
「行って参りました。どうも案外待たされましてな。」
 神山は浅川の叔母に一礼してから、懐《ふところ》に入れて来た封書を出した。
「御病人の方は、少しも御心配には及ばないとか申して居りました。追っていろいろ詳しい事は、その中に書いてありますそうで――」
 叔母はその封書を開く前に、まず度《ど》の強そうな眼鏡《めがね》をかけた。封筒の中には手紙のほかにも、半紙に一の字を引いたのが、四つ折のままはいっていた。
「どこ? 神山さん、この太極堂《たいきょくどう》と云うのは。」
 洋一《よういち》はそれでも珍しそうに、叔母の読んでいる手紙を覗きこんだ。
「二町目の角に洋食屋がありましょう。あの露路《ろじ》をはいった左側です。」
「じゃ君の清元《きよもと》の御師匠さんの近所じゃないか?」
「ええ、まあそんな見当です。」
 神山はにやにや笑いながら、時計の紐《ひも》をぶら下げた瑪瑙《めのう》の印形《いんぎょう》をいじっていた。
「あんな所に占《うらな》い者《しゃ》なんぞがあったかしら。――御病人は南枕《みなみまくら》にせらるべく候か。」
「お母さんはどっち枕だえ?」
 叔母は半ばたしなめるように、老眼鏡の眼を洋一へ挙げた。
「東枕《ひがしまくら》でしょう。この方角が南だから。」
 多少心もちの明《あかる》くなった洋一は、顔は叔母の方へ近づけたまま、手は袂《たもと》の底にある巻煙草の箱を探っていた。
「そら、そこに東枕にてもよろしいと書いてありますよ。――神山さん。一本上げようか? 抛《ほう》るよ。失敬。」
「こりゃどうも。E・C・Cですな。じゃ一本頂きます――。もうほかに御用はございませんか? もしまたございましたら、御遠慮なく――」
 神山は金口《きんぐち》を耳に挟《はさ》みながら、急に夏羽織の腰を擡《もた》げて、※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々《そうそう》店の方へ退こうとした。その途端に障子が明くと、頸《くび》に湿布《しっぷ》を巻いた姉のお絹《きぬ》が、まだセルのコオトも脱がず、果物《くだもの》の籠を下げてはいって来た。
「おや、お出でなさい。」
「降りますのによくまた、――」
 そう云う言葉が、ほとんど同時に、叔母と神山と
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