v
慎太郎は体を斜《ななめ》にして、驚いた視線を声の方へ投げた。するとそこには洋一が、板草履を土に鳴らしながら、車とすれすれに走っていた。
「明日《あす》からだ。お前は、――あすこにお前は何をしていたんだ?」
「今日は谷村博士が来るんでね、あんまり来ようが遅いから、立って待っていたんだけれど、――」
洋一はこう答えながら、かすかに息をはずませていた。慎太郎は弟を劬《いたわ》りたかった。が、その心もちは口を出ると、いつか平凡な言葉に変っていた。
「よっぽど待ったかい?」
「十分も待ったかしら?」
「誰かあすこに店の者がいたようじゃないか?――おい、そこだ。」
車夫は五六歩行き過ぎてから、大廻しに楫棒《かじぼう》を店の前へ下《おろ》した。さすがに慎太郎にもなつかしい、分厚な硝子戸《ガラスど》の立った店の前へ。
四
一時間の後《のち》店の二階には、谷村博士《たにむらはかせ》を中心に、賢造《けんぞう》、慎太郎《しんたろう》、お絹《きぬ》の夫の三人が浮かない顔を揃えていた。彼等はお律《りつ》の診察が終ってから、その診察の結果を聞くために、博士をこの二階に招じたのだった。体格の逞《たくま》しい谷村博士は、すすめられた茶を啜《すす》った後《のち》、しばらくは胴衣《チョッキ》の金鎖《きんぐさり》を太い指にからめていたが、やがて電燈に照らされた三人の顔を見廻すと、
「戸沢《とざわ》さんとか云う、――かかりつけの医者は御呼び下すったでしょうな。」と云った。
「ただ今電話をかけさせました。――すぐに上《あが》るとおっしゃったね。」
賢造は念を押すように、慎太郎の方を振り返った。慎太郎はまだ制服を着たまま、博士と向い合った父の隣りに、窮屈《きゅうくつ》そうな膝《ひざ》を重ねていた。
「ええ、すぐに見えるそうです。」
「じゃその方《かた》が見えてからにしましょう。――どうもはっきりしない天気ですな。」
谷村博士はこう云いながら、マロック革の巻煙草入れを出した。
「当年は梅雨《つゆ》が長いようです。」
「とかく雲行きが悪いんで弱りますな。天候も財界も昨今のようじゃ、――」
お絹の夫も横合いから、滑かな言葉をつけ加えた。ちょうど見舞いに来合せていた、この若い呉服屋《ごふくや》の主人は、短い口髭《くちひげ》に縁《ふち》無しの眼鏡《めがね》と云う、むしろ弁護士か会社
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