ゥけたまま、
「今田村さんから電話がかかって来ました。」と云った。
「何か用だったかい?」
洋一はそう云う間でも、絶えず賑《にぎやか》な大通りへ眼をやる事を忘れなかった。
「用は別にないんだそうで、――」
「お前はそれを云いに来たの?」
「いいえ、私はこれから工場まで行って来るんです。――ああ、それから旦那が洋一さんに用があるって云っていましたぜ。」
「お父さんが?」
洋一はこう云いかけたが、ふと向うを眺めたと思うと、突然相手も忘れたように、飾り窓の前を飛び出した。人通りも疎《まばら》な往来には、ちょうど今一台の人力車《じんりきしゃ》が、大通りをこちらへ切れようとしている。――その楫棒《かじぼう》の先へ立つが早いか、彼は両手を挙げないばかりに、車上の青年へ声をかけた。
「兄さん!」
車夫は体を後《うしろ》に反《そ》らせて、際《きわ》どく車の走りを止めた。車の上には慎太郎《しんたろう》が、高等学校の夏服に白い筋の制帽をかぶったまま、膝に挟《はさ》んだトランクを骨太な両手に抑えていた。
「やあ。」
兄は眉《まゆ》一つ動かさずに、洋一の顔を見下した。
「お母さんはどうした?」
洋一は兄を見上ながら、体中《からだじゅう》の血が生き生きと、急に両頬へ上るのを感じた。
「この二三日悪くってね。――十二指腸の潰瘍《かいよう》なんだそうだ。」
「そうか。そりゃ――」
慎太郎はやはり冷然と、それ以上何も云わなかった。が、その母譲りの眼の中には、洋一が予期していなかった、とは云え無意識に求めていたある表情が閃《ひらめ》いていた。洋一は兄の表情に愉快な当惑を感じながら、口早に切れ切れな言葉を続けた。
「今日は一番苦しそうだけれど、――でも兄さんが帰って来て好かった。――まあ早く行くと好いや。」
車夫は慎太郎の合図《あいず》と一しょに、また勢いよく走り始めた。慎太郎はその時まざまざと、今朝《けさ》上《のぼ》りの三等客車に腰を落着けた彼自身が、頭のどこかに映《うつ》るような気がした。それは隣に腰をかけた、血色の好い田舎娘の肩を肩に感じながら、母の死目《しにめ》に会うよりは、むしろ死んだ後に行った方が、悲しみが少いかも知れないなどと思い耽《ふけ》っている彼だった。しかも眼だけはその間も、レクラム版のゲエテの詩集へぼんやり落している彼だった。……
「兄さん。試験はまだ始らなかった?
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