う? もっとも向うの身になって見れば、母一人が患者《かんじゃ》ではなし、今頃はまだ便々《べんべん》と、回診《かいしん》か何かをしているかも知れない。いや、もう四時を打つ所だから、いくら遅くなったにしても、病院はとうに出ている筈だ。事によると今にも店さきへ、――
「どうです?」
 洋一は陰気な想像から、父の声と一しょに解放された。見ると襖《ふすま》の明いた所に、心配そうな浅川《あさかわ》の叔母《おば》が、いつか顔だけ覗《のぞ》かせていた。
「よっぽど苦しいようですがね、――御医者様はまだ見えませんかしら。」
 賢造は口を開く前に、まずそうに刻《きざ》みの煙を吐いた。
「困ったな。――もう一度電話でもかけさせましょうか?」
「そうですね、一時|凌《しの》ぎさえつけて頂けりゃ、戸沢さんでも好いんですがね。」
「僕がかけて来ます。」
 洋一はすぐに立ち上った。
「そうか。じゃ先生はもう御出かけになりましたでしょうかってね。番号は小石川《こいしかわ》の×××番だから、――」
 賢造の言葉が終らない内に、洋一はもう茶の間《ま》から、台所の板の間《ま》へ飛び出していた。台所には襷《たすき》がけの松が鰹節《かつおぶし》の鉋《かんな》を鳴らしている。――その側を乱暴に通りぬけながら、いきなり店へ行こうとすると、出合い頭《がしら》に向うからも、小走りに美津《みつ》が走って来た。二人はまともにぶつかる所を、やっと両方へ身を躱《かわ》した。
「御免下さいまし。」
 結《ゆ》いたての髪を※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《にお》わせた美津は、極《きま》り悪そうにこう云ったまま、ばたばた茶の間の方へ駈けて行った。
 洋一は妙にてれ[#「てれ」に傍点]ながら、電話の受話器を耳へ当てた。するとまだ交換手が出ない内に、帳場机にいた神山《かみやま》が、後《うしろ》から彼へ声をかけた。
「洋一さん。谷村病院ですか?」
「ああ、谷村病院。」
 彼は受話器を持ったなり、神山の方を振り返った。神山は彼の方を見ずに、金格子《かねごうし》で囲《かこ》った本立てへ、大きな簿記帳を戻していた。
「じゃ今向うからかかって来ましたぜ。お美津さんが奥へそう云いに行った筈です。」
「何てかかって来たの?」
「先生はただ今御出かけになったって云ってたようですが、――ただ今だね? 良さん。」
 呼びかけられた店員の
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