ノ、黙然《もくねん》と新聞をひろげたまま、さっき田村《たむら》に誘われた明治座の広告を眺めていた。
「それだからお父さんは嫌になってしまう。」
「お前よりおれの方が嫌になってしまう。お母さんはああやって寝ているし、お前にゃ愚痴《ぐち》ばかりこぼされるし、――」
 洋一は父の言葉を聞くと、我知らず襖《ふすま》一つ向うの、病室の動静に耳を澄ませた。そこではお律《りつ》がいつもに似合わず、時々ながら苦しそうな唸《うな》り声を洩《も》らしているらしかった。
「お母さんも今日は楽じゃないな。」
 独り言のような洋一の言葉は、一瞬間彼等親子の会話を途切《とぎ》らせるだけの力があった。が、お絹はすぐに居ずまいを直すと、ちらりと賢造の顔を睨《にら》みながら、
「お母さんの病気だってそうじゃないの? いつか私がそう云った時に、御医者様を取り換えていさえすりゃ、きっとこんな事にゃなりゃしないわ。それをお父さんがまた煮え切らないで、――」と、感傷的に父を責め始めた。
「だからさ、だから今日は谷村博士《たにむらはかせ》に来て貰うと云っているんじゃないか?」
 賢造はとうとう苦《にが》い顔をして、抛《ほう》り出すようにこう云った。洋一も姉の剛情《ごうじょう》なのが、さすがに少し面憎《つらにく》くもなった。
「谷村さんは何時頃来てくれるんでしょう?」
「三時頃来るって云っていた。さっき工場《こうば》の方からも電話をかけて置いたんだが、――」
「もう三時過ぎ、――四時五分前だがな。」
 洋一は立て膝を抱《だ》きながら、日暦《ひごよみ》の上に懸っている、大きな柱時計へ眼を挙げた。
「もう一度電話でもかけさせましょうか?」
「さっきも叔母さんがかけたってそう云っていたがね。」
「さっきって?」
「戸沢《とざわ》さんが帰るとすぐだとさ。」
 彼等がそんな事を話している内に、お絹はまだ顔を曇らせたまま、急に長火鉢の前から立上ると、さっさと次の間《ま》へはいって行った。
「やっと姉さんから御暇《おいとま》が出た。」
 賢造は苦笑《くしょう》を洩らしながら、始めて腰の煙草入《たばこい》れを抜いた。が、洋一はまた時計を見たぎり、何ともそれには答えなかった。
 病室からは相不変《あいかわらず》、お律の唸《うな》り声が聞えて来た。それが気のせいかさっきよりは、だんだん高くなるようでもあった。谷村博士はどうしたのだ
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