ノそう云ってね。好いかい?――それでおしまい。」
 お律はこう云い終ると、頭の位置を変えようとした。その拍子に氷嚢《ひょうのう》が辷り落ちた。洋一は看護婦の手を借りずに、元通りそれを置き直した。するとなぜか※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《まぶた》の裏が突然熱くなるような気がした。「泣いちゃいけない。」――彼は咄嗟《とっさ》にそう思った。が、もうその時は小鼻の上に涙のたまるのを感じていた。
「莫迦《ばか》だね。」
 母はかすかに呟《つぶや》いたまま、疲れたようにまた眼をつぶった。
 顔を赤くした洋一は、看護婦の見る眼を恥じながら、すごすご茶の間《ま》へ帰って来た。帰って来ると浅川の叔母《おば》が、肩越しに彼の顔を見上げて、
「どうだえ? お母さんは。」と声をかけた。
「目がさめています。」
「目はさめているけれどさ。」
 叔母はお絹と長火鉢越しに、顔を見合せたらしかった。姉は上眼《うわめ》を使いながら、笄《かんざし》で髷《まげ》の根を掻《か》いていたが、やがてその手を火鉢へやると、
「神山さんが帰って来た事は云わなかったの?」と云った。
「云わない。姉さんが行って云うと好いや。」
 洋一は襖側《ふすまぎわ》に立ったなり、緩《ゆる》んだ帯をしめ直していた。どんな事があってもお母さんを死なせてはならない。どんな事があっても――そう一心に思いつめながら、…………

        二

 翌日《あくるひ》の朝|洋一《よういち》は父と茶の間《ま》の食卓に向った。食卓の上には、昨夜《ゆうべ》泊った叔母《おば》の茶碗も伏せてあった。が、叔母は看護婦が、長い身じまいをすませる間《あいだ》、母の側へその代りに行っているとか云う事だった。
 親子は箸《はし》を動かしながら、時々短い口を利《き》いた。この一週間ばかりと云うものは、毎日こう云う二人きりの、寂しい食事が続いている。しかし今日《きょう》はいつもよりは、一層二人とも口が重かった。給仕の美津《みつ》も無言のまま、盆をさし出すばかりだった。
「今日は慎太郎《しんたろう》が帰って来るかな。」
 賢造《けんぞう》は返事を予期するように、ちらりと洋一の顔を眺めた。が、洋一は黙っていた。兄が今日帰るか帰らないか、――と云うより一体帰るかどうか、彼には今も兄の意志が、どうも不確かでならないのだった。
「それとも明日《あす》の朝にな
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