ぢや猫は助けてやらう。その代り。――」
 新公は横柄《わうへい》に云ひ放つた。
「その代りお前さんの体を借りるぜ。」
 お富はちよいと目を外《そ》らせた。一瞬間彼女の心の中には、憎しみ、怒り、嫌悪、悲哀、その外いろいろの感情がごつたに燃え立つて来たらしかつた。新公はさう云ふ彼女の変化に注意深い目を配りながら、横歩きに彼女の後ろへ廻ると茶の間の障子を明け放つた。茶の間は台所に比べれば、勿論一層薄暗かつた。が、立ち退いた跡と云ふ条、取り残した茶箪笥《ちやだんす》や長火鉢は、その中にもはつきり見る事が出来た。新公は其処に佇《たたず》んだ儘、かすかに汗ばんでゐるらしい、お富の襟もとへ目を落した。するとそれを感じたのか、お富は体を捻《ねぢ》るやうに、後ろにゐる新公の顔を見上げた。彼女の顔にはもう何時の間にか、さつきと少しも変らない、活《い》き活きした色が返つてゐた。しかし新公は狼狽《らうばい》したやうに、妙な瞬《またた》きを一つしながら、いきなり又猫へ短銃を向けた。
「いけないよ。いけないつてば。――」
 お富は彼を止めると同時に、手の中の剃刀《かみそり》を板の間へ落した。
「いけなけりやあすこ
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