見えない屋根の上へ時々急に降り注いでは、何時《いつ》か又中空へ遠のいて行つた。猫はその音の高まる度に、琥珀《こはく》色の眼をまん円《まる》にした。竈《かまど》さへわからない台所にも、この時だけは無気味な燐光が見えた。が、ざあつと云ふ雨音以外に何も変化のない事を知ると、猫はやはり身動きもせずもう一度眼を糸のやうにした。
そんな事が何度か繰り返される内に、猫はとうとう眠つたのか、眼を明ける事もしなくなつた。しかし雨は不相変《あひかはらず》急になつたり静まつたりした。八つ、八つ半、――時はこの雨音の中にだんだん日の暮へ移つて行つた。
すると七つに迫つた時、猫は何かに驚いたやうに突然眼を大きくした。同時に耳も立てたらしかつた。が、雨は今までよりも遙かに小降りになつてゐた。往来を馳《は》せ過ぎる駕籠舁《かごか》きの声、――その外には何も聞えなかつた。しかし数秒の沈黙の後、まつ暗だつた台所は何時の間にかぼんやり明るみ始めた。狭い板の間を塞《ふさ》いだ竈、蓋《ふた》のない水瓶《みづがめ》の水光り、荒神《くわうじん》の松、引き窓の綱、――そんな物も順々に見えるやうになつた。猫は愈《いよいよ》不安さ
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