そうに頷《うなず》いて見せた。女は霊魂《れいこん》の助かりを求めに来たのではない。肉体の助かりを求めに来たのである。しかしそれは咎《とが》めずとも好《よ》い。肉体は霊魂の家である。家の修覆《しゅうふく》さえ全《まった》ければ、主人の病もまた退き易い。現にカテキスタのフヮビアンなどはそのために十字架《じゅうじか》を拝するようになった。この女をここへ遣《つか》わされたのもあるいはそう云う神意かも知れない。
「お子さんはここへ来られますか。」
「それはちと無理かと存じますが……」
「ではそこへ案内して下さい。」
 女の眼に一瞬間の喜びの輝いたのはこの時である。
「さようでございますか? そうして頂ければ何よりの仕合せでございます。」
 神父は優しい感動を感じた。やはりその一瞬間、能面《のうめん》に近い女の顔に争われぬ母を見たからである。もう前に立っているのは物堅《ものがた》い武家の女房ではない。いや日本人の女でもない。むかし飼槽《かいおけ》の中の基督《キリスト》に美しい乳房《ちぶさ》を含ませた「すぐれて御愛憐《ごあいれん》、すぐれて御柔軟《ごにゅうなん》、すぐれて甘《うまし》くまします天上の妃《きさき》」と同じ母になったのである。神父は胸を反《そ》らせながら、快活に女へ話しかけた。
「御安心なさい。病もたいていわかっています。お子さんの命は預りました。とにかく出来るだけのことはして見ましょう。もしまた人力に及ばなければ、……」
 女は穏《おだや》かに言葉を挟《はさ》んだ。
「いえ、あなた様さえ一度お見舞い下されば、あとはもうどうなりましても、さらさら心残りはございません。その上はただ清水寺《きよみずでら》の観世音菩薩《かんぜおんぼさつ》の御冥護《ごみょうご》にお縋《すが》り申すばかりでございます。」
 観世音菩薩! この言葉はたちまち神父の顔に腹立たしい色を漲《みなぎ》らせた。神父は何も知らぬ女の顔へ鋭い眼を見据《みす》えると、首を振り振りたしなめ出した。
「お気をつけなさい。観音《かんのん》、釈迦《しゃか》八幡《はちまん》、天神《てんじん》、――あなたがたの崇《あが》めるのは皆木や石の偶像《ぐうぞう》です。まことの神、まことの天主《てんしゅ》はただ一人しか居られません。お子さんを殺すのも助けるのもデウスの御思召《おんおぼしめ》し一つです。偶像の知ることではありません。もしお子さんが大事ならば、偶像に祈るのはおやめなさい。」
 しかし女は古帷子《ふるかたびら》の襟を心もち顋《あご》に抑《おさ》えたなり、驚いたように神父を見ている。神父の怒《いかり》に満ちた言葉もわかったのかどうかはっきりしない。神父はほとんどのしかかるように鬚《ひげ》だらけの顔を突き出しながら、一生懸命にこう戒《いまし》め続けた。
「まことの神をお信じなさい。まことの神はジュデアの国、ベレンの里にお生まれになったジェズス・キリストばかりです。そのほかに神はありません。あると思うのは悪魔です。堕落《だらく》した天使の変化《へんげ》です。ジェズスは我々を救うために、磔木《はりき》にさえおん身をおかけになりました。御覧なさい。あのおん姿を?」
 神父は厳《おごそ》かに手を伸べると、後ろにある窓の硝子画《ガラスえ》を指《さ》した。ちょうど薄日に照らされた窓は堂内を罩《こ》めた仄暗《ほのくら》がりの中に、受難の基督《キリスト》を浮き上らせている。十字架の下《もと》に泣き惑《まど》ったマリヤや弟子たちも浮き上らせている。女は日本風に合掌《がっしょう》しながら、静かにこの窓をふり仰いだ。
「あれが噂《うわさ》に承《うけたまわ》った南蛮《なんばん》の如来《にょらい》でございますか? 倅《せがれ》の命さえ助かりますれば、わたくしはあの磔仏《はりきぼとけ》に一生|仕《つか》えるのもかまいません。どうか冥護《みょうご》を賜るように御祈祷をお捧げ下さいまし。」
 女の声は落着いた中に、深い感動を蔵している。神父はいよいよ勝ち誇《ほこ》ったようにうなじを少し反《そ》らせたまま、前よりも雄弁に話し出した。
「ジェズスは我々の罪を浄《きよ》め、我々の魂を救うために地上へ御降誕《ごこうたん》なすったのです。お聞きなさい、御一生の御艱難辛苦《ごかんなんしんく》を!」
 神聖な感動に充ち満ちた神父はそちらこちらを歩きながら、口早に基督《キリスト》の生涯を話した。衆徳《しゅうとく》備り給う処女《おとめ》マリヤに御受胎《ごじゅたい》を告げに来た天使のことを、厩《うまや》の中の御降誕のことを、御降誕を告げる星を便りに乳香《にゅうこう》や没薬《もつやく》を捧《ささ》げに来た、賢《かしこ》い東方の博士《はかせ》たちのことを、メシアの出現を惧《おそ》れるために、ヘロデ王の殺した童子《どうじ》たちのことを、ヨハネの
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