る仏の道を説いた。その後《ご》また日本の国へも、やはり同じ道を教《おしえ》に来た。釈迦《しゃか》の説いた教によれば、我々人間の霊魂《アニマ》は、その罪の軽重《けいちょう》深浅に従い、あるいは小鳥となり、あるいは牛となり、あるいはまた樹木となるそうである。のみならず釈迦は生まれる時、彼の母を殺したと云う。釈迦の教の荒誕《こうたん》なのは勿論、釈迦の大悪《だいあく》もまた明白である。(ジアン・クラッセ)しかしおぎんの母親は、前にもちょいと書いた通り、そう云う真実を知るはずはない。彼等は息を引きとった後《のち》も、釈迦の教を信じている。寂しい墓原《はかはら》の松のかげに、末は「いんへるの」に堕《お》ちるのも知らず、はかない極楽を夢見ている。
 しかしおぎんは幸いにも、両親の無知に染まっていない。これは山里村《やまざとむら》居《い》つきの農夫、憐《あわれ》みの深いじょあん[#「じょあん」に傍線]孫七《まごしち》は、とうにこの童女の額へ、ばぷちずも[#「ばぷちずも」に傍線]のおん水を注いだ上、まりや[#「まりや」に傍線]と云う名を与えていた。おぎんは釈迦が生まれた時、天と地とを指しながら、「天上天下《てんじょうてんげ》唯我独尊《ゆいがどくそん》」と獅子吼《ししく》した事などは信じていない。その代りに、「深く御柔軟《ごにゅうなん》、深く御哀憐《ごあいれん》、勝《すぐ》れて甘《うまし》くまします童女さんた・まりあ[#「さんた・まりあ」に傍線]様」が、自然と身ごもった事を信じている。「十字架《くるす》に懸《かか》り死し給い、石の御棺《ぎょかん》に納められ給い、」大地の底に埋められたぜすす[#「ぜすす」に傍線]が、三日の後《のち》よみ返った事を信じている。御糺明《ごきゅうめい》の喇叭《らっぱ》さえ響き渡れば、「おん主《あるじ》、大いなる御威光《ごいこう》、大いなる御威勢《ごいせい》を以て天下《あまくだ》り給い、土埃《つちほこり》になりたる人々の色身《しきしん》を、もとの霊魂《アニマ》に併《あわ》せてよみ返し給い、善人は天上の快楽《けらく》を受け、また悪人は天狗《てんぐ》と共に、地獄に堕《お》ち」る事を信じている。殊に「御言葉《みことば》の御聖徳《ごしょうとく》により、ぱんと酒の色形《いろかたち》は変らずといえども、その正体《しょうたい》はおん主《あるじ》の御血肉《おんけつにく》となり
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