さいまし。その代りおん教を捨てた上は、わたしも生きては居られません。………」
おぎんは切れ切れにそう云ってから、後《あと》は啜《すす》り泣きに沈んでしまった。すると今度はじょあんな[#「じょあんな」に傍線]おすみも、足に踏んだ薪《たきぎ》の上へ、ほろほろ涙を落し出した。これからはらいそ[#「はらいそ」に傍線]へはいろうとするのに、用もない歎《なげ》きに耽《ふけ》っているのは、勿論|宗徒《しゅうと》のすべき事ではない。じょあん[#「じょあん」に傍線]孫七は、苦々《にがにが》しそうに隣の妻を振り返りながら、癇高《かんだか》い声に叱りつけた。
「お前も悪魔に見入られたのか? 天主のおん教を捨てたければ、勝手にお前だけ捨てるが好《い》い。おれは一人でも焼け死んで見せるぞ。」
「いえ、わたしもお供《とも》を致します。けれどもそれは――それは」
おすみは涙を呑みこんでから、半ば叫ぶように言葉を投げた。
「けれどもそれははらいそ[#「はらいそ」に傍線]へ参りたいからではございません。ただあなたの、――あなたのお供を致すのでございます。」
孫七は長い間《あいだ》黙っていた。しかしその顔は蒼《あお》ざめたり、また血の色を漲《みなぎ》らせたりした。と同時に汗の玉も、つぶつぶ顔にたまり出した。孫七は今心の眼に、彼の霊魂《アニマ》を見ているのである。彼の霊魂《アニマ》を奪い合う天使と悪魔とを見ているのである。もしその時足もとのおぎんが泣き伏した顔を挙げずにいたら、――いや、もうおぎんは顔を挙げた。しかも涙に溢《あふ》れた眼には、不思議な光を宿しながら、じっと彼を見守っている。この眼の奥に閃《ひらめ》いているのは、無邪気な童女の心ばかりではない。「流人《るにん》となれるえわ[#「えわ」に傍線]の子供」、あらゆる人間の心である。
「お父様! いんへるの[#「いんへるの」に傍線]へ参りましょう。お母様も、わたしも、あちらのお父様やお母様も、――みんな悪魔にさらわれましょう。」
孫七はとうとう堕落した。
この話は我国に多かった奉教人《ほうきょうにん》の受難の中《うち》でも、最も恥《は》ずべき躓《つまず》きとして、後代に伝えられた物語である。何でも彼等が三人ながら、おん教を捨てるとなった時には、天主の何たるかをわきまえない見物の老若男女《ろうにゃくなんにょ》さえも、ことごとく彼等を憎んだと
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