黷ノ三角の波の上に帆前船《ほまへせん》を浮べた商標は額縁へ入れても好《い》い位である。彼はズボンのポケツトの底へちやんとそのマツチを落した後、得々《とくとく》とこの店を後ろにした。……
保吉は爾来|半年《はんとし》ばかり、学校へ通ふ往復に度たびこの店へ買ひ物に寄つた。もう今では目をつぶつても、はつきりこの店を思ひ出すことが出来る。天井の梁《はり》からぶら下つたのは鎌倉のハムに違ひない。欄間《らんま》の色硝子《いろガラス》は漆喰《しつくひ》塗りの壁へ緑色の日の光を映してゐる。板張りの床に散らかつたのはコンデンスド・ミルクの広告であらう。正面の柱には時計の下に大きい日暦《ひごよみ》がかかつてゐる。その外《ほか》飾り窓の中の軍艦三笠も、金線サイダアのポスタアも、椅子も、電話も、自転車も、スコツトランドのウイスキイも、アメリカの乾《ほ》し葡萄《ぶだう》も、マニラの葉巻も、エヂプトの紙巻も、燻製《くんせい》の鰊《にしん》も、牛肉の大和煮《やまとに》も、殆ど見覚えのないものはない。殊に高い勘定台の後ろに仏頂面《ぶつちやうづら》を曝《さら》した主人は飽き飽きするほど見慣れてゐる。いや、見慣れてゐるば
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