いますが。」
女の目はおどおどしてゐる。口もとも無理に微笑してゐる。殊に滑稽に見えたのは鼻も亦つぶつぶ汗をかいてゐる。保吉は女と目を合せた刹那《せつな》に突然悪魔の乗り移るのを感じた。この女は云はば含羞草《おじぎさう》である。一定の刺戟を与へさへすれば、必ず彼の思ふ通りの反応を呈するのに違ひない。しかし刺戟は簡単である。ぢつと顔を見つめても好い。或は又指先にさはつても好い。女はきつとその刺戟に保吉の暗示を受けとるであらう。受けとつた暗示をどうするかは勿論未知の問題である。しかし幸ひに反撥しなければ、――いや、猫は飼つても好《い》い。が、猫に似た女の為に魂を悪魔に売り渡すのはどうも少し考へものである。保吉は吸ひかけた煙草と一しよに、乗り移つた悪魔を抛《はふ》り出した。不意を食《くら》つた悪魔はとんぼ返る拍子に小僧の鼻の穴へ飛びこんだのであらう。小僧は首を縮めるが早いか、つづけさまに大きい嚏《くさめ》をした。
「ぢや仕かたがない。Droste を一つくれ給へ。」
保吉は苦笑を浮かべたまま、ポケツトのばら銭を探り出した。
その後も彼はこの女と度たび同じやうな交渉を重ねた。が、悪魔に乗り移られた記憶は仕合せと外には持つてゐない。いや、一度などはふとしたはずみに天使の来たのを感じたことさへある。
或秋も深まつた午後、保吉は煙草を買つた次手《ついで》にこの店の電話を借用した。主人は日の当つた店の前に空気ポンプを動かしながら、自転車の修繕に取りかかつてゐる。小僧もけふは使ひに出たらしい。女は不相変《あひかはらず》勘定台の前に受取りか何か整理してゐる。かう云ふ店の光景はいつ見ても悪いものではない。何処か阿蘭陀《オランダ》の風俗画じみた、もの静かな幸福に溢れてゐる。保吉は女のすぐ後ろに受話器を耳へ当てたまま、彼の愛蔵する写真版の De Hooghe の一枚を思ひ出した。
しかし電話はいつになつても、容易に先方へ通じないらしい。のみならず交換手もどうしたのか、一二度「何番へ?」を繰り返した後は全然沈黙を守つてゐる。保吉は何度もベルを鳴らした。が、受話器は彼の耳へぶつぶつ云ふ音を伝へるだけである。かうなればもう De Hooghe などを思ひ出してゐる場合ではない。保吉はまづポケツトから Spargo の「社会主義早わかり」を出した。幸ひ電話には見台《けんだい》のやうに蓋のなぞへにな
前へ
次へ
全8ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング