トをよごしたらやつと時間の鐘が鳴つた。さうして自分たちは、ロオレンス先生の後から、ぞろぞろ教室の外の廊下へ溢れ出した。
 廊下へ出て、黄いろい葉を垂らした庭の樹木を見下してゐると、豊田実君が来て、「ちよいとノオトを見せてくれ給へ」と云つた。それからノオトを開けて見せると、豊田君の見たがつてゐる所は、丁度自分の居眠りをした所だつたので、流石《さすが》に少し恐縮した。豊田君は「ぢやようござんす」と云つて、悠然と向うへ行つてしまつた。悠然と云ふのは、決して好い加減な形容ぢやない。実際君は何時でも、悠然と歩いてゐた。豊田君は今どこで何をしてゐるか、判然とした事は承知しないが、ロオレンス先生に好意を持ち、若しくはロオレンス先生が好意を持つた学生の中で、我々――と云つて悪るければ、少くとも自分が、常に或程度の親しみを感じてゐた、たつた一人の人間である。自分はこれを書いてゐる今でも、君の悠然とした歩き方を思ひ出すと、もう一度君と大学の廊下に立つて、平凡な時候の挨拶でも交換したいやうな気がしないでもない。
 その中に又、鐘が鳴つて、我々は二人とも下の教室へ行く事になつた。今度は藤岡勝二博士の言語学の講
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