、涙を一ぱいためてゐた。いや、さう云へば頬の上にも、涙の流れた痕《あと》が残つてcX。自分はこの思ひもよらない松岡の顔に気がつくと、さつきの「やつてゐるな」と云ふ元気の好い心もちは、一時にどこかへ消えてしまつた。さうしてその代りに、自分も夜通し苦しんで、原稿でもせつせと書いたやうな、やり切れない心細さが、俄《にはか》に胸へこみ上げて来た。「莫迦《ばか》な奴だな。寝ながら泣く程苦しい仕事なんぞをするなよ。体でも毀《こは》したら、どうするんだ。」――自分はその心細さの中で、かう松岡を叱りたかつた。が、叱りたいその裏では、やつぱり「よくそれ程苦しんだな」と、内証で褒めてやりたかつた。さう思つたら、自分まで、何時《いつ》の間にか涙ぐんでゐた。
 それから又足音を偸《ぬす》んで、梯子段《はしごだん》を下りて来ると、下宿の御婆さんが心配さうに、「御休みなすつていらつしやいますか」と尋《き》いた。自分は「よく寝てゐます」とぶつきらぼうな返事をして、泣顔を見られるのが嫌だつたから、※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々《そうそう》凩の往来へ出た。往来は相不変《あひかはらず》、砂煙が空へ舞ひ上つて
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