えてゐる。その後松岡は久米が宮裏へ移ると共に、本郷五丁目へ下宿を移した。さうして今でもそこにゐて、釈迦伝《しやかでん》から材料を取つた三幕物の戯曲を書いてゐた。
我々四人は、又久米の手製の珈琲《コオヒイ》を啜りながら、煙草の煙の濛々《もうもう》とたなびく中で、盛にいろんな問題をしやべり合つた。その頃は丁度武者小路実篤氏が、将《まさ》にパルナスの頂上へ立たうとしてゐる頃だつた。従つて我々の間でも、屡《しばしば》氏の作品やその主張が話題に上つた。我々は大抵、武者小路氏が文壇の天窓を開け放つて、爽《さわやか》な空気を入れた事を愉快に感じてゐるものだつた。恐らくこの愉快は、氏の踵《くびす》に接して来た我々の時代、或は我々以後の時代の青年のみが、特に痛感した心もちだらう。だから我々以前と我々以後とでは、文壇及それ以外の鑑賞家の氏に対する評価の大小に、径庭《けいてい》があつたのは已むを得ない。それは丁度我々以前と我々以後とで、田山花袋氏に対する評価が、相違するのと同じ事である。(唯、その相違の程度が、武者小路氏と田山氏とで、どちらが真に近いかは疑問である。念の為に断つて置くが、自分が同じ事だと云
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