んぞ食つてゐやしない。」成瀬は親孝行な男だから、自分がかう云ふと、ちよいと妙な顔をした。が、すぐに又、「しかし向うの女の人を本位にして云へば、僕等が前にゐた事になるんだからな。」「成程、あすこぢや両方で向ひ合つてゐようと思つたら、どつちか一方が舞台へ上らなくつちやならない訳だ。――訳だが、それで君は何つて返事をしたんだい。」「見なかつたつて云つたあね。実際見なかつたんだから仕方がないぢやないか。」「さう今になつて、僕に欝憤を洩したつて駄目だよ。だが惜しい事をしたな。一体あれは音楽会だつたから、いけないんだ。芝居なら僕が頼まれなくつたつて、帝劇中の見物をのこらず物色をしてやるんだのに。」――成瀬と自分とはこんな話をしながら、大笑ひに笑ひ合つた。
 その日は午後には、独逸語の時間があつた。が、当時我々はアイアムビツクに出席するとか何とか云つて、成瀬が出れば自分が休み、自分が出れば成瀬が休んでゐた。さうして一つ教科書に代る代る二人で仮名をつけて、試験前には一しよにその教科書を読んで間に合せてゐた。丁度その午後の独逸語は成瀬が出席する番に当つてゐたから、自分は食事をしまふと、成瀬に教科書を引き渡して、独りで一白舎の外へ出た。
 出ると外は凩《こがらし》が、砂煙を往来の空に捲《ま》き上げてゐた。黄いろい並木の銀杏《いてふ》の落葉も、その中でくるくる舞ひながら、大学前の古本屋の店の奥まで吹かれて行つた。自分はふと松岡を訪ねて見ようと云ふ気になつた。松岡は自分と(恐らくは大抵な人と)違つて大風の吹く日が一番落着いて好いと称してゐた。だからその日などは殊に落着いてゐるだらうと思つて、何度も帽子を飛ばせさうにしながら、やつと本郷五丁目の彼の下宿まで辿りつくと、下宿のお婆さんが入口で、「松岡さんはまだ御休みになつていらつしやいますが」と、気の毒さうな顔をして云つた。「まだ寝てゐる? 恐ろしく寝坊だな。」「いえ、昨夜徹夜なすつて、ついさつきまで起きていらしつたんですがね、今し方寝るからつて、床へおはいりになつたんでございますよ。」「ぢやまだ眼がさめてゐるかも知れない。兎に角ちよいと上つて見ませう。寝てゐればすぐに下りて来ます。」自分は松岡のゐる二階へ、足音を偸《ぬす》みながら、そつと上つた。上つてとつつきの襖《ふすま》をあけると、二三枚戸を立てた、うす暗い部屋のまん中に、松岡の床がとつて
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